忠誠・同化を強要する論理


図書館で借りた「<日本人>の境界」をようやっと(返却期限ギリギリで)読み終えた。



で、k3altさんのブログを覗いてみたら「日本人って何だろう」という記事を書いておられて、奇妙な縁と共時性を感じると同時に、そのコメント欄を読みながら「今も昔も変わんねえな」と、しばし感慨にふけった。


タイトルにあるように、この本は明治以降「日本人」と「非日本人」の境界に置かれた人々―ある時は「日本人」として取り込まれ(包摂され)、ある時は「非日本人」として排除されたアイヌ、沖縄・台湾・朝鮮出身者―の歴史について書かれている。自分が勉強不足なせいもあってか、初めて知った事実も多く(例えば、台湾・朝鮮総督府がしばしば既得権を巡って本国―内地と対立・衝突していた、など)、非常に刺激になった。


この中に武力抗日闘争が沈静化した1920年代、台湾のエリート青年層を中心に起きた「台湾議会設置運動」について触れた一章がある。彼らは穏健な態度で、独立ではなくあくまで日本による支配という枠の中で自らの権利を獲得し、地位を向上させようとした。また親日的であはあるが日本への「同化」を良しとせず、多元主義に近い立場を取って自らの漢民族としてのアイデンティティも保とうとしていた。そんな彼らに、台湾在住の公学校長(内地人)が次のようなことを言ったという。


台湾青年雑誌で君等は常に自由々々と乱叫するが、一体世には自由なるものゝあるべき筈がない。若しあるとせばそれは浅薄な西洋被りの考である。……大和魂は即ち献身服従の大精神であつて自由を許す理がない。然るに君等は好んで自由を云謂するは誠に不謹慎の極みである。……君等は既に日本臣民になつた以上はそれを改めねばならぬ。二十六年以来の善政のお陰で君等は何れ程慶沢を受けたであらう。今後も一切の施設を内地人官民が従来と同様に着々処理経営して行くのであるから、君等は宜しくそれに信頼して云はれる儘に随いて行きさへすれば必ずより大なる幸福を亨けるに違ひない。……台湾人は漢民族であるから〔日中の〕親善を謀る媒介として最も適当であると云ふ、それは全然誤謬である。台湾人が自分等は漢民族であると思ふからには決して日本に好意を抱く理がない。……何時までも漢民族で在りたいならば馬関条約当時に二ヵ年の猶予期間を与へたのに何故に支那へ還らぬか。二十六年後の今日になつて我は漢民族であると称へて憚らないのは勝手過ぎである。これは、我は数千年の歴史ある朝鮮民族であると名告るものと同一系統であつて不逞鮮人に対するそれは不逞台人となるべき者である。台湾人たるものは一日も早くその漢民族たるの観念を忘却し、大和民族の一員となることに向つて全力を尽さねばならぬ。


要するに「権利だ自由だ言う前に日本に感謝しろ、忠誠を誓え」「それが嫌なら帰れ」「日本人になり切れないなら『不逞』のレッテルを貼られても(≒差別されても)仕方がない」ということだろう*1


これって現在の嫌韓*2の、在日コリアン(日本国籍取得者を含む)に対するメンタリティとあまりにそっくりで、何だかゲンナリしてしまう。こういうのも一種の「温故知新」なんだろうか。

*1:念のために言うと、当時の日本人が皆こういう考え方だったわけではなく、多元主義的な立場から民族性の保持を容認あるいは尊重する意見もあった。ただいずれの立場でも、日本による支配・日本の優位性を前提にしている点は同じだった。

*2:嫌韓の中でも特に、自分のことを嫌韓・差別者だと思っていない層。「自分にも在日の友人がいるけれど」という文句をマクラにするのが特徴。