清水正義氏の戦争責任論


おんどり音頭さんの記事経由で見つけた、清水正義氏のサイト「ドイツ現代史を訪ねて」。共感する部分が多かったので、興味深い記述を抜き書き。(太字による強調は引用者)




東京裁判をどうみるか

私は戦前日本の侵略政策責任は認めますし、東京裁判によってそれが断罪されたことの妥当性も認めます。しかし、そのことは他者の例、連合国の責任を隠蔽するものであってはならないと言っているのです。チャーチルルーズベルトスターリンニュルンベルク裁判を決めたとき、自分たちの側にも戦争責任があったなどとは夢にも考えなかったでしょう。それは戦勝国の政治指導者の傲慢な態度です。近代世界における植民地支配の責任という一般的な意味だけでそう言っているのではなく、例えばドレスデン空爆や広島・長崎を考えても、戦後日本兵士のシベリア抑留、強制労働などを考えても、狭義の意味で戦争犯罪を犯したという意味でそう言えます。

太平洋戦争で戦死した日本兵士は戦後の平和樹立を目的として犠牲になったのではありません。日本は敗戦という「予期せぬ」結果のうえに戦後の平和が築かれたのです。今日私たちが享受している平和な日本社会は、戦争に負けたが故に存在しています。日本兵士が命をかけた戦った目的が達成されなかったことを前提に、今日の私たちがいるのです。

私は東京裁判がさまざまな制約を持っていたこと、一種の欺瞞的内容をすら持っていたことを認めます。しかし同時に、この裁判がもしなければ、戦後日本は戦前の軍国主義政治をもっとずっと簡単に肯定する態度に転じたでありましょう。それはちょうど憲法9条に似ています。9条にまつわる欺瞞は周知の通りです、しかしながら、9条が戦後日本で果たした役割は否定できません。同様に東京裁判も、さまざまな制約や不当性を前提としながらも、それが果たした役割は認めなくてはなりません。


小泉首相の靖国神社参拝問題について

自民党山崎幹事長の言い分などを聞いていますと、小泉氏が靖国に行きたいという感情は分かるが隣国が反対するから国益上やらない方がベターだという風に聞こえますね。つまり外交的配慮だ、と。野党もしきりにアジア諸国国民感情に配慮して」という言い方をします。一見して妥当に聞こえるこの言い方は、実は問題の本筋をぼかす効果も持っています。というのは、靖国問題というのは実は戦後日本政治の底に流れている戦前回帰のイデオロギー装置そのものなのです。国家主義的というよりはむしろ、「お上」の権威にひれ伏す「公」至上主義といった方がいいと思いますが、日本人の国民感情の深いところに必ず存在しているこの魔物が靖国問題の本質です。もっとはっきり言えば、仮に中国も韓国も何も言わないのだったら、小泉氏が靖国に行くことは何の問題もない。むしろ素直な国民感情だという風に許容してしまう。こういう歴史健忘症に私たちはかかっています。本当は、靖国に行くかどうかは、日本国民一人一人の歴史に対する態度に関わる問題として考えるべきなのです。そのうえで、靖国の意味を認めて参拝する人もいていいでしょう。その中に政治家がいても別に不思議ではない。問題は、靖国神社を国が特別扱いして、そこに「国家殉難者」を祀ることを公的に承認することにあるのです。

私は戦争責任問題はアジア諸国との外交関係である以上に、日本人の国民的アイデンティティの問題だと思っています。自分たちが世界の中でどのような存在なのか、それを歴史的に、また冷静に回顧するというのが戦争責任問題の本筋だと思います。アジア諸国からの批判があるからという発想で対処するのではなく、自らの過去を自らが引き受ける責任ある態度こそが私たちに課せられた歴史的課題なのであって、それを自分たちに甘く、責任を回避する方向のみを探るような安易な態度に終始すれば、それはアジア諸国にとってではなく、日本人自身にとって致命的なマイナスになると思います。

私は日本が戦争責任問題を抱えていることが日本の弱みになるとは思いません。むしろ、過去に深刻な問題を抱えているからこそ、それがなければ考えずに済んだことも考えざるを得ない立場に置かれるわけで、その意味では私たちは得がたい地位にいると思います。この地位こそ、先人たちが私たちに遺した貴重な遺産でしょう。1930年代から40年代前半に生きてきた先人たちは、日本の歴史上例を見ない激烈な体験を強いられました。この人たちの不幸を考えることは、同時に、海の向こう側にいた先人たちの不幸を考えることです。連合国やアジア諸国が一方的に日本の戦争責任を押し付けてきているといったネガティブな考えにとらわれるのでなく、戦争一般のメカニズムと、その中で日本国家が果たした役割を深く抉っていくことが私たちの課題です。それは私たちにとって、決して恥ずかしいことではありません。むしろ勇気ある振るまいと見なされて然るべきです。重い歴史から逃れられないという課題を負ってしまった国民という地位を私たちはむしろ積極的に受け入れるべきではないでしょうか。