「2+3=80」


今日、図書館で借りた「朝鮮人強制連行強制労働の記録 北海道・千島・樺太篇」を読了、返却。



非常に多くの資料や証言を元にした研究書で、学ぶところが非常に多かった*1のだけれど、その中に昭和18年8月3日に当時商工大臣だった岸信介足尾銅山で行った訓示が収録されている(太字による強調は引用者)。


私は只今御紹介を受けました岸商工大臣であります。本日只今足尾に到着いたしました。去る一日から向う二ヵ月間重要鉱物非常増産強調週間が設けられ、私は一日の朝マイクを通じ、全国の山々の人に本期間の設置せられた趣旨と増産期間内に於ける格段の御健闘を御願いしました……。マイクを通じて御願いしただけでは足りなくて、本期間の始めに当地へ参りましたことは単なる見物やものずきで来たのではありません。


今日の状態は吾々国務大臣が一日でも任務を離れることはよほど重大なことでなければ出来ません。当鉱山に私が参りますには陛下の御裁可を得て参ったのであります。鉱物増産が大東亜戦の勝敗を決する上に於て如何に重要な問題かが御分りと思います。……東条総理が口癖に国民を激励する言葉に、不可能を可能にする、2+3=80にせよという言葉があります。常識的には不可能でありますが、それは平時の常識で、非常の場合、我々が生死を超越せるとき、2+3=80となり不可能が可能となるのであります。皇軍将兵の働きは全く2+3=80であります。


……ここに於て銃後に於ける吾々も2+3=80の精神力を発揮して普通では考えられぬ増産をなし遂げねばなりません。……私は帰ってから、伺った山の出鉱を表にして、毎日これを眺めて、期待以上の数字を示されたときには思わず目頭を熱くし、以下の時には何か鉱山に変ったことがあるのではないかと案じているのであります。どうかこの私の気持をくまれて期待以上の数字を示されることをお願して本日の講演を終ります」(足尾銅山機関誌『足尾銅山』第二巻第八号<一九四三年>より)*2


東条英機についてはあまり詳しくないので、彼の口癖だったという「2+3=80」については初めて聞いた*3のだが、思わずこのくだりを読んで「なるほどな」と呟いてしまった。




よく聞かれる稚拙な強制連行否定論に「日本政府が強制連行を命じたという文書はない」*4というものがあるが、「偉い人」はいちいち細かいことを具体的に命じる必要はない。ただ「2+3=80の精神力を発揮して普通では考えられぬ増産をなし遂げねばなりません」と言うだけで事足りる。ヤクザの親分が「○○の奴が静かになってくれれば助かるんだがのお・・・」などと呟くだけで、その意を汲んだ子分が「○○の奴」を「静か」にさせる、というのと本質的には変わらない。


例えば、林えいだい氏の「消された朝鮮人強制連行の記録 関釜連絡船と火床の坑夫たち」を読むと、この「2+3=80」を達成するために朝鮮人労働者がどれだけ過酷なノルマを課せられたかが分かる。そもそも労働力が足りない上、無茶なノルマが課せられるせいで労働条件はますます悪くなる。当然逃亡者が増える。そうなると労働力はさらに減るから一人頭のノルマはさらに厳しくなり、また逃亡者に対する罰(リンチ・制裁)も厳しくなる・・・という地獄のような悪循環が生まれる。


付け加えるなら、この「2+3=80」は全ての人が等しく背負わされたわけではない。労働現場ではしばしば労務管理側による配給品の横流しなどの中間搾取も横行していた。その分の皺寄せは当然弱い立場の者に来る。つまり「2+3」を80どころか100、150にしなければならない人が出てくる。




以上は「2+3=80」の労働現場における場合だが、同じことは連行時の実態についても言える。鎌田沢一郎が「朝鮮新話」で悪質な徴用の実態について述べた後、「但総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、上司の鼻息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやつてのけたのである」と、あたかも強制連行の責任が末端の朝鮮人にあるかのように述べている*5。これも、ヤクザの親分の喩えで考えれば実態を想像するのは難しくない。通常のやり方では人は集まらない。だからと言って上司に「集まりませんでした」と言い訳しても通用するわけがない。なぜなら事態は「非常の場合」なのだから。であるなら無理な手段、強引な手段を取らざるを得ないのは当然である。




戦時中、こうした「2+3=80」という無茶な論理から生じた無理・不条理がいたる所に現れたのは想像に難くない。戦時中の日本を現代人が想起する時、こうした状況があったことを忘れてはならないと思う。

*1:ただ、30年以上前の書籍ということもあり、検証を要する点や批判的に読むべき部分も見られた。

*2:p585

*3:もしかして有名なのだろうか。だとするとかなり恥ずかしい。

*4:外村大氏の論文http://www.peace-forum.com/kyokasho/sotomura.html)の「おわりに」の部分を参照のこと。

*5:マンガ嫌韓流」(p86)や鄭大均「在日・強制連行の神話」(p112)では、この鎌田の記述が取り上げられていて、これについては「blog*色即是空」のyamaki622さんが「強制連行はなかったという嘘 その2」で反論しておられる。また前述の外村大氏も「日韓 新たな始まりのための20章」p58〜59でこのことに触れている。なお、連行に関わった末端の官吏・公吏は朝鮮人だけでなく、日本人もいたし、日本人に連れていかれたという証言も多数存在する。