入管施設での自殺(2)


前回に引き続き、もうひとつ「“ようこそ”と言える日本へ」から、入管の実態について書かれた箇所を引用する。


これは、やはり土井さんが関わったアフガニスタン人の話。彼らはアフガニスタンで少数派のハザラ人(ほとんどがシーア派)。ハザラ人はアフガニスタンで差別・迫害されてきた歴史があるため、ほとんどの国で難民として認められている。にも関わらず彼らは強制収容され、一度は解放されたものの、再収容されてしまう。


クリスマスと正月を収容所で越すアフガニスタン人たちが不憫で、私は何度も収容所に面会に行きました。モハマドさんは再収容のショックから摂食障害に陥りました。そして、精神的にも肉体的にも健康はみるみるむしばまれ、日に一○―二○錠もの薬を処方されるようになりました。一週間で数キロも体重が減ってしまいました。


私は最初、彼がハンガーストライキをしているのかと思い、モハマドさんに面会して「ご飯を食べて欲しい」とお願いしました。でも、モハマドさんは訴えます。


「違う、僕もご飯は食べたいんだ。でもまったくお腹が減らない。ご飯を体が受けつけないんだ。この強制収容はいつまで続くのか……」


その目には涙がにじんでいます。


こんなこともありました。再収容されてしまったフセインさんに面会すると、フセインさんは、健康障害に悩んでいるにもかかわらず、「センセイ、いやだー!」と心の限りにさけびながら、病院に連れて行かれるのを拒んでいました。入管職員は決して自らの名を明かさず、自分たちを「センセイ」と呼ばせています。


「病院に連れて行かれるときに、センセイが手錠をはめる。どうして?手錠をはめられるとき、僕の心は死ぬ。悪いことはしていない。逃げもしない。患者さんたちに、悪人だと思われて怖がられている。手錠をはめられるくらいならば、病院に行かずに死んだ方がましだ」


私は、難民である彼らを救いだせない日本の司法の閉塞に、惨めな気持ちでいっぱいでした。


精神的・肉体的衰えはモハマドさんやフセインさんに限りませんでした。


収容所の外の医師に診察を受けたいと何度も申請したのに、入管に「病気じゃありません」と拒絶されたことなどをきっかけに、二○○二年二月、マフディ君までもが、意識がもうろうとなり倒れたのです。一ヵ月前には、マフディ君は収容所の中から児玉弁護士に電話をかけてきて、「げんきー、あなた、どうして私見ない?」とちゃめっ気たっぷりのままでした。


児玉弁護士は、あの明るいマフディ君が倒れたということにショックを受け、すぐに、二時間かけて、牛久の強制収容所に駆けつけました。そして、面会室に連れてこられたマフディ君の姿を強化プラスチック越しに見て、児玉弁護士は度肝を抜かれてしまいました。


あのちゃめっ気たっぷりのマフディ君が、両腕を胸の前でぴったりと合わせて硬直し、目を閉じて、車いすに乗せられて連れてこられたのです。


児玉弁護士が「目は開かないのか」と問いかけても、か弱く「見えない、開けられない」と言うのが精一杯の様子でした。児玉弁護士が面会に来ているということもわからない様子でした。すぐに、入管に医者に診せるようにと要求しましたが、入管は「今日は医者が休み」というばかりでした。


マフディ君が倒れたすぐあと、また、別の一九歳のアフガニスタン難民申請者が、備えつけのはさみで、顔や腹などを十数ヵ所刺して自殺未遂し、その日の夜にはズボンで首つり自殺を図ったという情報が入ってきました。この青年こそが、のちに『母さん、ぼくは生きてます』(マガジンハウス)という手記を出すことになる、アリ・ジャン君でした。


さらに三月、六人の被収容者がコインや石鹸を飲みこみ、続いて約四○錠の睡眠薬等の錠剤を飲みこみ、自殺を図りました。自分に火をつけようとした人もいました。二○○二年二月から三月のころ、アフガニスタン難民二三名が収容されていた東日本入国管理センターは、地獄のような状態だったのです。


しかし同じころ、日本は、アフガニスタンのハミド・カルザイ移行行政政権大統領や、パウエル米国務長官、オニール米財務長官、その他、世界各国の要人を日本に招き、アフガニスタン復興支援会議を開いていました。議長は元UNHCRの緒方貞子さん。


そこで日本政府は、アフガニスタンに対して巨額の復興支援金を拠出することを約束しました。そして、そのかなりの部分が、アフガニスタンの難民にも使われました。


そう、日本は、国外の難民は支援するのに、国内の難民は強制収容所に閉じこめて、心の傷から血を流させ続けていたのです。


この矛盾は、CNNなど、アフガニスタン復興支援会議を取材していたメディアによって全世界に報道されました。しかし入管は、強制収容施設内のみならず、入管敷地内の撮影も拒否し、そのありのままの姿を伝えることを拒んでいました。(p84〜87)


入管の収容施設におけるこのような例は、果たしてごく例外的なケースなのだろうか。こういうケースと楊さんの自殺には、全く関連性がないことなのだろうか。


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母さん、ぼくは生きてます

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