事実であっても、一回言っただけでは(事実として)伝わらない。


↑これはもちろん有名な「嘘も百回言えば真実になる」の裏返しなのだけれど。


いわゆるネット右翼とか嫌韓の主張を見ていると「よくもまあ、どこかで見たようなことを飽きもせず繰り返し繰り返し言えるものだ」とある意味感心してしまう。


どちらかというと、自分の場合、ある種の「遠慮」があった。


つまり、「自分が考えることなんて大して独創的でもなんでもないし、どこかで誰かが言ってるだろう」というのもあって、どこかで誰かが言ってるなら別に自分が繰り返さなくたっていいじゃん、という気持ちを抱いていた。


しかし、そうそう「慎み深く」しててはいかんのだろうなあ、と少し前から思うようになってきている。


例えば「20万しかいないのに30万人殺せるはずがない」という主張を見たとき。


あるいは「在日は無条件で生活保護が受給できる」というデマコピペを目にしたとき。


「強制連行された朝鮮人は245人しかいなかった」と訳知り顔で書いている人を見たとき。


田母神「論文」を支持する人が何百人もいるのを知ったとき。


「事実」が「事実」であることに甘えちゃいかんのだよなあ、と思う。





↑の「アウシュヴィッツと<アウシュヴィッツの嘘>」を読んだきっかけは、ネットのとあるところで、次のような引用文を目にしたからだった。


しかし問題なのは、自分に知識が不足しているがために、寛容な態度や公平な見方をしているつもりで、彼らの言うことにも一理あるかもしれない、と動揺する人々のほうである。そうした者たちには、―ドイツの劇作家ベルナルト・ブレヒトの有名な言葉を借りれば―、もう一回言っておけばよかったと後で後悔しないように、何千回も言われ尽くしたようなことでももう一度言わねばならない。*1


この言葉自体もきっと、何度も繰り返された言葉なのだろうけれど、ここでもやはり繰り返しておく意義はあるだろう。

*1:アウシュヴィッツと<アウシュヴィッツの嘘>」ハードカバー版p89〜90