「大きい主語」

(だいたひかる風に)気分が乗ってきたので、もうひとつ記事を書いてみます。


今週の「さよなら絶望先生」が面白かったという話。

今週のネタは「大きい主語」、つまり何か主張する時に「私は〜と思う」ではなく「私たちは〜」という言い方に対するツッコミで、思わず「膝ポン」したくなった。大袈裟な言い方かもしれないけれど「“一人称複数形”の濫用に潜む暴力性・欺瞞性」については昔から気になっていたことだったので。


最初にこのことを感じたのは十数年前、大学生の頃。自分が行ってた大学はとある新左翼団体が自治会(自分や友人たちは愛情と揶揄の意を込めて「じっちー」と読んでいた)の実権を握っていて、キャンパスには「学費値上げ反対!」などと独特の字体で書かれた立て看板があちこちにあったし、自治会のメンバー(とはいえ、中には若干年を食ってて、本当に大学に在籍しているのかどうか疑わしい人もいたのだけれど)が拡声器を持ってアジっている光景もよく見掛けた。

んで、その度気になっていたのが、あの人たちが必ず使う「我々はァ〜・・・しなければなりませんッ!」という言い方。あれを聞く度に「あなたのいう『我々』には、こっちも入ってるの?『我々』というくくり方で強引にこちらを巻き込もうとするのはやめてよね」と思ったものだ(ただ、「じっちー」に関するコワ〜イ噂も耳にしていたので、直接言わなかったけど)。


さて、大学を卒業してからは、こういう「我々」論法にはあまり出くわさなかったのだけれど、また最近見るようになった。ただしそれは左翼側ではなく、いわゆるネット右翼の主張に見られる、「俺たち日本人は〜」というやつである。いわく

「俺たち日本人は在日(韓国・朝鮮・中国・特アでも可)が大嫌いだ」


とかいう類のもの。


不思議なことに(実は不思議ではないけど)、いわゆる右派・ネット右翼と呼ばれる人でも、それなりにしっかりした意見の人はこういう「俺たち日本人」的な言い方はあまりせず、「私は〜と思う」という風に一人称単数形で主張する(ことが多い)。逆に「俺たち日本人」的な一人称複数形を使うタイプは、たいていどこかの嫌韓サイトやらの受け売りみたいなことしか言わない(ことが多い)。


要は、自分が、自信がないのだな、と思う。だから「一人称複数形」という「大きい主語」の衣を纏ってしか主張ができないし、「我々」という言葉を使うことで「共同幻想」に浸りたいのだろうな*1。でもそれはかなりさびしいことなんじゃないかな。


「同じ日本人として迷惑」とまでは言わないけれど、せめて一人称単数形で堂々と自説を語るか、もしくは「ニッポソ」に移住して欲しいものだ、と思う今日この頃。







※7/24追記

こちらの記事(http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080722)で取り上げられている「愛国主義者」という主語による主張に失笑。「日本人」なら「愛」はむやみに口にする言葉じゃないと思うのだけれどね。

*1:ちなみに、だからといって「絶対一人称複数形で物事を主張してはならない」と言いたいわけではない。