デジャヴ

最近Apemanさん、hokusyuさんの周辺で盛り上がっているトリアージホロコースト論争。各氏の意見を興味深く拝読しているのだけれど、ホロコーストについて疎いのもあって議論内容の三割位しか理解出来ていない。近いうちに議論の中で取り上げられている本*1の中からどれか読もうと思う。


さて、その代わり、というわけではないが、ハンス・ペーター・リヒター「あのころはフリードリヒがいた」を少し前に読んだ。これは別に今回の議論とは関係なく、ミクシィでとある方が日記で取り上げられていたのがきっかけだったのだけれど。

あのころはフリードリヒがいた (岩波少年文庫 (520))

あのころはフリードリヒがいた (岩波少年文庫 (520))

ナチスドイツによるユダヤ人迫害を描いた児童文学の名作として名高いこの作品、確か十年以上前、清水真砂子氏だったか河合隼雄氏の本(あるいは両氏共にこの作品に言及してたかも)で知ったのだと思う。貧しいドイツ人の子ども「ぼく」と、ユダヤ人であるフリードリヒの交流・成長を軸に、ユダヤ人迫害が徐々に酷くなっていくさまが淡々と描かれる。



その中で印象に残ったのが、子どもたちが反ユダヤ思想を植え付けられるこの場面。


「総統<フューラー>(ヒトラーのこと・訳註)のピンプ諸君!」その声は不愉快なほどかん高かった。「自分は、きょう、諸君にユダヤ人について話すよう、特命を受けてきた。諸君はみな、ユダヤ人を知っておる。しかしだ、ほんとうは、あまりにも知らなさすぎるのだ。今から一時間ののちに、それが変わる。一時間のちには、諸君は、ユダヤ人が、いかなる危険をわれわれに、わが民族に及ぼすかを知るのだ。」


フリードリヒはぼくの隣で、ちょっと身をのりだしていた。視線を演説者にぴたりとあて、口をわずかに開いて、一語一語をのみくだしていた。


(中略)


「幅広の、腕の長さほどもあるナイフを持って、ユダヤの祭司はあわれな雌牛に近づいてゆく。そして、のろのろと屠殺ナイフをふりかざす。牛は死の恐怖にかられて、啼き、逃げだそうとする。しかし、ユダヤ人には、情けという感情はない。幅広のナイフを、牛の首にぐさりと突きさす。血が吹きでる。あたり一面血の海となる。牛は暴れ狂う。眼はおびえきってひきつっている。だが、ユダヤ人には慈悲の心がない。牛の苦痛を縮めてやろうとはしない。血まみれになった牛を見て喜ぶのだ。ユダヤ人は血を欲する。であるから、牛が血を流し、ついにあわれな最後をとげるまで、そばにつっ立って見物するのだ。――これを、かれらは屠殺というのだ!――ユダヤ人の神は、そういうことを要求するのだ!」


(中略)


せむしの男は、キリスト教徒の子どもが殺された話、ユダヤ人の犯罪、戦争のことなどを話しつづけた。

ぼくは聞いていて、身の毛がよだった。

ようやく話が終わりにきた。「最後に一言、諸君の脳裏にこの一言をたたきこんでおきたい。くりかえしいうからよく聞け。耳にたこができるまで、自分は諸君にこの一言をくりかえしいうぞ。よいか。ユダヤ人は、われわれの災いのもとだ!くりかえすぞ。ユダヤ人は、われわれの災いのもとだ!もう一度。ユ ダ ヤ 人 は、 わ れ わ れ の 災 い の も と だ!」

読んでいて非常に既視感を覚える。この文の「ユダヤ人」を「朝鮮人」「韓国人」「中国人(“彼ら”の言い方でいうなら“シナ人”)」に変えただけのようなアジテーションはネットの中でゲップが出るほど氾濫している*2

別に、今日明日にも日本がナチスドイツのようになる、とは思わないけれど、今も昔も「この手のもの」は変わりばえがしないのだなあ、と。「日の下に新たなるものなし」という旧約聖書の言葉を思い出した。

*1:CloseToTheWallさん、kamikitazawaさんがそれぞれ挙げているスティーヴ・J・グールド「人間の測りまちがい」、「ユダヤ人の絶滅」は両方県立図書館に置いてあったので、リクエスト候補に入れておこう

*2:ここ(http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/)とかここ(http://www.zaitokukai.com/)とか、あとここ(http://3.csx.jp/peachy/data/korea/korea.htmlとか。グロ注意。