自国の過ちを認めることは「自虐」なんだろうか。


以下二本の記事はミクシィからの転載です。芸がないといえばそうだけど、ブレヒトさんもああ仰ってるし、ね。





たとえばアメリカを例に考えてみる。


かつてアメリカ先住民(いわゆるインディアン)の生活・文化を破壊し、「居留地」へ追いやったこと。


日本に対する空襲や原爆投下が戦時国際法に反する非人道的行為であったこと。


「防共」の名の下に、ベトナムを侵略し、ベトナムのみならず、自国にも深刻なダメージをもたらしたこと。


国内では「民主主義」を謳いながら、自分に都合が良ければ独裁政権(たとえばかつての韓国)も支援してきたこと。


今なお、アフガニスタンイラクで、罪のない人々の命を奪い続けていること。


これらが過ちであることを認めるアメリカ人は「自虐的」で「反米」なのかといえば、そうではないだろう、と思う。


同じように日本人が、かつての戦争が侵略戦争だったと認識すること、近代化の過程で様々な過ちを冒したことを受け止めることが「自虐的」とは、自分には思えない。なぜなら、そうした点をさしひいてもなお、日本という国には誇るべきもの、愛すべきものがたくさんあると思うから。


逆に、「侵略」を認めることが「日本の誇りを傷つける」と思ってる人に聞いてみたい。あなたの、日本に対して抱いている愛情や誇りは、その程度で傷ついてしまうものなのですか?と。


最後に、以前の日記でも触れた清水正義氏の言葉を紹介しておく。





私は日本が戦争責任問題を抱えていることが日本の弱みになるとは思いません。むしろ、過去に深刻な問題を抱えているからこそ、それがなければ考えずに済んだことも考えざるを得ない立場に置かれるわけで、その意味では私たちは得がたい地位にいると思います。この地位こそ、先人たちが私たちに遺した貴重な遺産でしょう。1930年代から40年代前半に生きてきた先人たちは、日本の歴史上例を見ない激烈な体験を強いられました。この人たちの不幸を考えることは、同時に、海の向こう側にいた先人たちの不幸を考えることです。連合国やアジア諸国が一方的に日本の戦争責任を押し付けてきているといったネガティブな考えにとらわれるのでなく、戦争一般のメカニズムと、その中で日本国家が果たした役割を深く抉っていくことが私たちの課題です。それは私たちにとって、決して恥ずかしいことではありません。むしろ勇気ある振るまいと見なされて然るべきです。重い歴史から逃れられないという課題を負ってしまった国民という地位を私たちはむしろ積極的に受け入れるべきではないでしょうか。


http://www.geocities.jp/dasheiligewasser/historyeducation/Yasukuni.