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id:aztvという方からこの記事トラックバックを頂いた。


わら人形を攻撃する人


はてなトラックバックを通じて議論するというのは未体験なので、どうしようかと思ったのだけれど、自分の中で暗黙の了解になっている事柄を言葉で整理する良い機会かもしれないと思い、返答することにした。


逆に、「侵略」を認めることが「日本の誇りを傷つける」と思ってる人に聞いてみたい。あなたの、日本に対して抱いている愛情や誇りは、その程度で傷ついてしまうものなのですか?と。


これって自由主義史観信奉者に対して言っても的外れではないかと思う。私が読んだ数少ない自由主義史観の書籍に自虐的=自国の過ちを認めることと言っていたかというと、そうではない。要するに、この人は自分が<創造>した自由主義史観派を批判的にコメントしているのだ。


まず、自分はこの記事で「『侵略』を認めることが『日本の誇りを傷つける』と思ってる人」に聞いてみたい、と書いたのであって「自由主義史観信奉者」「自由主義史観派」とは言ってません。


で、「侵略」を認めることが「日本の誇りを傷つける」と思ってる人は、現にいるでしょう。aztv氏はミクシィもやってらっしゃるようだから、例えば「田母神俊雄航空幕僚長支持!」コミュなどを覗いてみてはいかがでしょうか。


ここを読むとid:aztv氏は「私は南京事件否定論など信じてない」と書かれているので「自由主義史観信奉者」でも「日本が侵略したことを認めたがらない人」でもないと思われるのですが(あるいは、全面的に支持はしないまでも部分的には賛同できる、という立場なのかもしれません)、そうするとなぜ自分の記事に噛みついた(という表現は失礼かもしれませんが)のか、よく分かりません。aztv氏自身がそうでないにしても「日本が侵略したこと」を認めたがらない人が少なからず存在することは了解して頂けると思うのですが。


もうひとつ、おかしなことがある。それはリンク先の人が述べていることではないのだけれど、この人が引用している清水とかいう奴のコメントがどうも納得できない。


1930年代から40年代前半に生きてきた先人たちは、日本の歴史上例を見ない激烈な体験を強いられました。この人たちの不幸を考えることは、同時に、海の向こう側にいた先人たちの不幸を考えることです。連合国やアジア諸国が一方的に日本の戦争責任を押し付けてきているといったネガティブな考えにとらわれるのでなく、戦争一般のメカニズムと、その中で日本国家が果たした役割を深く抉っていくことが私たちの課題です。それは私たちにとって、決して恥ずかしいことではありません。むしろ勇気ある振るまいと見なされて然るべきです。重い歴史から逃れられないという課題を負ってしまった国民という地位を私たちはむしろ積極的に受け入れるべきではないでしょうか。


日本が過去に侵略戦争をしたことが私にとってどうしたというのだろうか。日本という国家が過去に侵略者であったとして、それは私が侵略者のポジションを受け継いでいることを意味しない。私だけではない。過去の日本人が侵略者あるいは加害者であったとしても、それが現在の日本人も加害者・侵略者だということにはならない。一部のモノ好きが馬鹿みたいな使命感を背負って生きていくのは自由だ。だが、それを他の人に押し付けるなと言いたい。私が清水のいう課題を背負う義務はないのだ。


引用した清水氏の文章における「課題」とは「この人たち(1930年代から40年代前半に生き、日本の歴史上例を見ない激烈な体験を強いられてきた先人たち)の不幸を考えること」「同時に、海の向こう側にいた先人たちの不幸を考えること」「戦争一般のメカニズムと、その中で日本国家が果たした役割を深く抉っていくこと」であって「過去の日本人が侵略者あるいは加害者であったのだから、現在の日本人も加害者・侵略者だ」などとは清水氏の文章も自分も主張していないのですが。


それと、aztv氏は「それを他の人に押し付けるなと言いたい」「私が清水のいう課題を背負う義務はないのだ」と言いますが、清水氏の文章はそこまで押し付けがましいものでしょうか。最後の「〜受け入れるべきではないでしょうか」の「べき」は確かに「義務」の意味あいがありますが、続く「ではないでしょうか」というのは「控え目な提案」であって、全体として「押し付け」のニュアンスは小さいものに思えます。


にも関わらず、azty氏が「押し付けるなと言いたい」と「過剰反応」を示したことに、(皮肉ではなく)興味を覚えます。


aztv氏からはこの記事にもトラックバックを頂いているのだけれど、それについてはまた、後ほど。