「戦争は罪悪である」読了。


戦争は罪悪である―反戦僧侶・竹中彰元の叛骨

戦争は罪悪である―反戦僧侶・竹中彰元の叛骨


竹中彰元の生涯についての記述ももちろん興味深かったけれど、著書の大東氏自身が、彰元をどう捉え、その姿勢から何を学ぶか、ということについて触れた「第3章 わたしたちと竹中彰元」も考えさせられるものが多かった。例えば、


また、戦後世代が戦争責任を主張すると、「後世に生きた者が当時の者を批評して批判するのは容易なこと」「自分を抜きにした無責任な批判ならば、慎まなければならない」*1などと、戦争責任を論じることが批判されることがあります。私なりの反論はいくつかあるのですが、それよりも彰元の存在はどうするのでしょうか。彰元は後世に生きたものではなく、自分を抜きにした批判をした人でもありません。とすれば、僧侶の戦争責任を追求するのに、彰元の反戦の論理ならば問題がないことになります。
(p133〜134)


「後世に生きた者が当時の者を批評して批判するのは容易なこと」というのは、自由主義史観論者を含めた右派がよく言う「現代の価値観で過去を断罪すべきではない」という物言いに通じるものがある*2


また、大東氏はこんなことも書いている。


先に、「(引用者注・彰元を処罰し、長らく名誉回復を行わなかった)大谷派は彰元を顕彰する資格があるのか」などと、えらそうなことを書きました。では私には、彰元を顕彰する資格はあるのでしょうか。


こんな想像をしてみました。一九三七(昭和一二)年一○月二一日、近所の僧侶たちが彰元に反戦言動の撤回を求めた場面です。もしここに私がいたならば……。


私も同様に彰元へ発言の撤回を求めていたと思います。彰元の身を案じ、やさしく撤回を求めたと思います。すると彰元は「言論の自由じゃ」と答えるでしょう。


こうなれば私は、「このくそじじい」と叫んで、彰元の襟をつかみ、何度もゆさぶっていたことでしょう。なんと憎たらしい奴だと思ったはずです。私は彰元のような「真宗僧侶」ではなく、近在の僧侶と同様「大谷派僧侶」のようです。


私には彰元を「顕彰」する資格はないようです。ただし、彰元を「検証」することは続けていきたいと思います。彰元を学ぶ(検証する)ことが第一歩。そしてその後、彰元に学ぶ(顕彰する)ようにすればいいことです。段階を経ることは大切なことではないでしょうか。
(p135〜136)


この文からは、大東氏が「自分を抜きにした無責任な批判」ではなく、戦争責任を「わがこと」として受け止め、考えようという態度が読み取れる。手前味噌になるが、自分も南京事件に関して似たような「想像」をしたことがあるので、大東氏のこうした姿勢には非常に共感する。

*1:原注・水島見一『大谷派なる宗教的精神』真宗大谷派宗務所出版部 二○○七(平成一九)年九月一○日。

*2:とは言え、この発言がどのような文脈で言われているのか確認していないので断定は出来ないが。ちなみに水島見一という人は大谷大学の教授らしい。