連合軍捕虜と朝鮮人労働者の交流


最近、麻生鉱業の捕虜問題が一部で話題になっているが、炭坑と連合軍捕虜というと、林えいだい「消された朝鮮人強制連行の記録 関釜連絡船と火床の坑夫たち」で読んだ次のエピソードを思い出す。


最初に捕虜が収容所に来たのは、一九四三年の四月頃で、水上舎監から話があった。


(中略)


「かわいそうにね」


わしの女房たちは、骨と皮だけに痩せこけた捕虜に対して同情しとりました。


その捕虜を、軍隊が銃剣で追い立てて坑口まで連れて行っとった。日本人が捕虜を見て憎いのと、朝鮮人が捕虜を見て憎いのとはちょっと違う。


わしたちの親とか兄弟が戦死したとなると、少しはその感情は違ったと思うが、いわばどちらも囚われの身だからね、情況というか境遇は同じようなものよ。


「君たちも日本の捕虜か?」


坑内で日本語が話せる捕虜の将校からたずねられて、わしには最初はその意味が理解出来んやった。


「捕虜なんかじゃない、朝鮮人だ」


「捕虜と一つも変らんじゃないか、朝鮮人だったのか?」


捕虜たちは、坑内で働く朝鮮人を捕虜だと思っていたらしい。彼らはいいところを見ていると、もう口惜しいやらどうやら複雑な気持になったですよ。


朝鮮人同士が一緒に入坑したり、昼休みなど弁当を食べる時は、どうしても朝鮮語でしゃべる。顔を見ただけでは日本人と見分けはつかないはずだが、言葉を聞いているとすぐ分かるらしいんだ。


最初見た時には大きいから、これが外国人かと驚いたけど、痩せて胸の骨は出て手も足も棒のようになって、栄養失調でお腹だけ水腹で腫れとった。黒人は真っ黒で、坑内で会うと白い歯だけが闇に浮かんで不気味でね、それでもアメリカの奴隷やったと同情したね。


どういうわけか、黒人の捕虜と朝鮮人は一番先に親しくなったよ。


捕虜たちは男が大きいので、歩く時はゆったりとだらしなく見えたですよ。採炭する時もがつがつ働かず、疲労せんように手加減するから、「サボタージュするな、スピード、スピード!」と、坑内指導員が怒鳴りつけとった。


一日八時間労働だと捕虜の国際協定があるとかで、八時間過ごせばいいという感じで働かないし、残業を命令すると指導員に喰ってかかるのよ。


「何だと、捕虜のくせに、早く仕事にかかれ、スピード、スピード!」


三凾取り(六トン)をすればノルマは終わるというと、今度は猛然と働いて五、六時間で終わることがあった。三凾取ると坑内に寝転んで、絶対に働かなかった。


「お前たちはまだ余力が残っている。何故働かないんだ!」


中隊長が怒って通訳に命令した。


「約束の六トンは掘って義務は果たした。それでいいではないか」


と通訳は反論した。しかし、中隊長など日本的な感覚から考えると、それは理解出来ないことで、殴りつけたりしたのでトラブルが方々で起こってね。


最後には、採炭の見込み(出炭計画)が変更されて一人四凾(八トン)を出さないと昇坑させないと命令した。捕虜たちは約束が違うと抗議して繰込場で揉めると、憲兵がピストルを抜いて入坑しろと脅迫した。


捕虜が仕方なく四凾取りをすると、今度はわしたちに向かって、


「お前たち半島は捕虜から負けている。精神がたるんでいるからだ。捕虜でも四凾取りをしているではないか」


朝の繰込場で、足立部隊長(区長)はハッパをかけたですよ。


捕虜たちはドンゴロスの布を拾って来て、収容所では洋服をつくったり、ベルトの片切れでサンダルをつくってはいた。布でボールをつくって、収容所の中で野球をしているところを見たが、あれが日頃の坑内の捕虜と同じ姿かとあきれ返ったですよ。それに比べると、朝鮮人の訓練所はじめじめとして陰気臭くて、声を立てることもなく横になって寝るだけだったからね。


捕虜と朝鮮人は、採炭するうちに自然と仲よくなったですよ。朝鮮人の中には、京城大学を卒業して強制連行されたインテリも大勢いたので、その人たちは前歴を絶対にいわなかった。学問があることがバレると、労務助手にされてしまうからね・英語で捕虜と自由に話すので、日本側の情報は全部相手には分かる。


「日本はもう飛行機も飛ばないだろう、それは制空権を連合軍が握っているからだ。戦争が終わるのは時間の問題だ」


そういっていた。


顔も姿も違うと心も違うが、日本人は野蛮で無茶苦茶に捕虜を虐待したですよ。特に軍隊経験者は、言葉が分からないから叩いて命令した。気が短い者がおって、軍隊式に捕虜を叩くからかわいそうで、朝鮮人がみんなでかばってやったこともあるよ。


大出し日には残業するので、坑内には炊出しの握り飯が運ばれたり、おやつだといってふかし芋が配られた。昇坑すると煙草に火をつけて渡すので、わしなんかわざと捕虜の足元に捨ててやった。捕虜に品物を与えることは厳禁されとったが、捨てた分を拾って吸う限りでは文句はない。煙草を一口吸うと次の捕虜へと回し飲みしてね。彼らはそのことを何時までも憶えていて、坑内で会っても挨拶してくれた。国境を越え敵味方の壁を越えて親しくなって、もう他人のような気がしなくなってね。


食糧事情が悪くなって、捕虜に脱脂大豆を食べさせ、血便が続いて採炭どころじゃない。


坑道の隅のほうに寝かせて、その分わしたちが手伝ったりした。中隊長とか小隊長が回って来ると、合図をして起こしてやった。


「この野郎!何でお前はサボりよるとか」と、ピッケルで叩く指導員もいた。


わしたちは、以前、病院からもらって残った腹薬を持って行って、捕虜に飲ませたことがある。


黒人に限らず捕虜は胡椒が好きで、弁当の飯の上に振りかけて食べた。


「グッド、グッド、サンキュー」と、大機嫌で食べた。


ますます石炭増産命令が出て、栄養失調の病気の捕虜が入坑するようになった。そんな男は採炭どころじゃなくて、トラフからこぼれ落ちた石炭を拾わせたが、ふらふらと座り込んでしまう。


わしは弁当と一緒に、ふかし芋を新聞紙に包んで入坑した。入坑する時、繰込場の検身係が文句をいうが、自分が食べるからと強引に持って降りた。それを昼休みなどに新聞紙と一緒に渡すと、病気の捕虜の喜びといったらなかったよ。よく見ていると下士官級のリーダーが、その新聞紙を小さく折りたたんで靴の中に隠した。それが何のためであるか、わしには分かっているので、次の日も新聞紙にふかし芋を包んで渡した。


捕虜と朝鮮人が接近して仲良くなると、日本人側は非常に嫌がって、とうとう払い(採炭現場)を切り離した。弁当の時間になると、中隊長や指導員が回って来て接触を絶った。(p522〜526、沈石万氏の証言)


ちなみにこれは麻生鉱業ではなく、福岡県の日炭高松炭鉱の話だが、麻生系の炭坑でも似たようなことはあったのかもしれない。