死ねなくて、泣いた―朴四甲さんの話


以前紹介した「百萬人の身世打鈴」には、戦時動員体験者の他、様々な一世の証言が寄せられている。次の朴四甲さんの証言は、その中でも印象に残ったひとつ。


1927年生まれの朴さんは五歳の時、両親と弟、父方の祖父と共に渡日。しかしまもなく両親と弟が死去。彼は祖父と十五歳年上の従兄弟と共に暮らすことになる。


小学校、高等小学校、中学校へと進みました。中学校は保善中学校といって、安田財閥が経営していた学校でした。その間中、考えていたことは軍隊に志願することでした。そのことで人間扱いされるしかない、と。屈折した軍国少年でした。


今考えると、腹の立つことばかり。ともかく朝鮮人と呼ばれたことないからね。「半島だ」、それから「鮮」。今でも覚えているけれど。


「朝鮮の朝は朝廷の朝につながるからナッ、おまっち呼ぶのによお、朝鮮て呼べねえんだよ」。


はあーッ、なるほどなあと思ったね。


わたしは学校をずーっと朴四甲の本名で通したものだから、差別され続けたわけ。そりゃ迷ったときもあった。うちの兄貴*1は池田という通名を名乗っていたし、学校の先生は、


「おまえら鮮人はなあ、苗字を日本の苗字にしなければならんのだぞ」


って言う。


帰ってハラボジ*2に相談したら、ハラボジは絶対に許さなかった。ハラボジが許さないもの、日本名を名乗るわけにもいかず。わたしの場合、民族の誇りのためにという積極的なものじゃなかったってわけ。


あの当時、朝鮮人が人間として扱われなかった時代、この重圧を跳ね返すには、戦場で死ぬしかないと思い詰めていた。『西住戦車長伝』という松竹の映画があって、感激したもんだから、いずれ習志野の陸軍戦車学校に志願しようと思っていた。別に天皇のためではなく、日本のためでもなく、おれが戦争で死ぬことによってハラボジや従兄弟の兄貴、そして次の世代の朝鮮人が、日本から対等の人間として扱ってもらえるようになる。素朴にそう思い込んでいた。だからトン、ツー、トン、ツーという無線も覚えたし、電波探知機、今でいうソナーの訓練も受けたし、学校の軍事教練にも熱を入れていた。


民族差別の重圧をはねのけるために、戦争で死ぬことばかりを考えていた。別に悲愴感なんてない、当然のことと考えていたんだ。


(中略)


沖縄が取られたのも、原子爆弾が落されたのも、わたしら一切知らなかったけれど、八月十五日のことは、明日重大な放送があるとラジオで聞いて知っていました。


それで当日、広っぱの真ん中にラジオを置いたわけ。約三○○人の朝鮮人労務者のうち半数の一五○人程がラジオを取り巻いた。で、始まった。あれ聞いて、誰が分かるのよ。ガアガア雑音は入るし。


それでもわたしには何となく日本が負けたということが分かった。ああ、負けたと、態度に出たんでしょうね。そうしたら、ある飯場頭の親父さんが、


「池田のアンちゃん(これ、ぼくのことだけど)、泣くことないよ。日本が負けてよかったじゃないの。朝鮮人はこれからよくなるんだよお」。


池田というのは兄貴の通名なんですね。そうしたら、その兄貴が、


「野郎泣いてるわ、日本負けたらしいぞ!」


それでみんなが、わあーっと声にならない声。その中から、


「日本が負けた?池田のおやじが言うところを見ると、間違いねえわ。弟がああして泣いてるわ」


と聞える。もう耳がガーンとなって、頭が真っ白になった。


何で泣いたのか?後になって考えてみると、むろん日本が負けて残念で、悔しくて泣いたわけじゃない。これで戦場へ出かけて死ぬという、わたしの目的は永遠に失われてしまった。その悲しみから涙を流したのだと、わたしは思う。


それにしても泣いたのは一生一代の不覚、末代までの恥。後々八・一五の集会なんかで冷やかされる、


「あんとき四甲<サガプ>さん、泣いたもんなあ」


って。今でもカンカン照りの広っぱのことはハッキリ覚えています。


わたしは十八歳の少年でした。


(p79〜82。太字による強調は引用者)


朴さん自身が「屈折した軍国少年」だったと自らを振り返っているが、同胞のために戦場で死ぬことを悲愴感もなく受け入れ、その目的が潰えたために涙を流すという心情、そしてそれを生み出した時代というものは、いったいどのようなものだったのだろう。


右派の中には、改名をしなかった朝鮮人将校の洪思翊や、特攻隊に「志願」した朝鮮人兵士を殊更に称讚する人がいるが、特にそういう人には、この朴さんの「涙の理由」に思いを馳せてほしいと思う。


百万人の身世打鈴(シンセタリョン)―朝鮮人強制連行・強制労働の「恨(ハン)」

百万人の身世打鈴(シンセタリョン)―朝鮮人強制連行・強制労働の「恨(ハン)」

*1:前述の従兄弟のこと。

*2:父方の祖父