「世間をお騒がせして申し訳ありません」


自分で言うのも何だが、自分はどちらかというと温厚な方だと思う。だが、ある種の物事に対して、時に殺意に近い苛立ちを覚えることがある。


特に、「安易な慣用表現」「それを使うことで何がしかが隠蔽されてしまうような物言い」に過敏に反応してしまう。



先日、雑誌で不倫を暴露されたテレビ局のアナウンサーが、そのことに対して自らの出演番組で「お騒がせして申し訳ありません」と“謝罪”したのだという*1



なんなんだろう。これは。



だいたい、「世間をお騒がせして申し訳ありません」という言葉で“謝罪”が行われる場合、「世間(一般の人々)」が被害に遭った例、というのはあまりないと思う*2


で、一人のアナウンサーが不倫をしたとて「世間一般」に迷惑や被害を与えるわけではない。


彼が迷惑・被害を与えたとすれば、妻や家族など親近者(相手の家族・親近者も含む)、あるいは不倫が報道されたことで彼の職場の業務に支障が起きたとすれば、仕事仲間などである。そうした人々に謝罪するならば分かるが、なぜ「世間」に謝罪しなければならないのか。


むしろ彼の不倫行為が明らかになったことで、少なからぬゴシップ好きな人々が好奇心を満たし、またそういうネタを商売にしているメディアに「メシのタネ」を提供したのだから、ある意味彼は世間に「貢献」している、とも言えるのだ。


しかし、彼のような立場に立たされた人に「世間に対して謝る」ことを強いる無言の空気というものが、明らかに日本の社会には存在している。


一方で、例えば戦争責任のような問題であったり、国の不祥事のような問題については責任があいまいになるというのはどうなんだろう。謝るべき時にきちんと謝らず、謝る必要のないものに対して謝罪を強いられる、というのは、あまり良い社会とは思えない。



・・・ということをつらつら考えていた矢先、「謝罪の偽装」http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20080716/というエントリーを読んだ。Arisanさんが取り上げているのは食品偽装に関する「謝罪」の問題なのだけれど、問題の根は同質のように思う。



そういえば、鴻上尚史の戯曲「プロパガンダ・デイドリーム」も、謝罪を強いる「世間様」に対する闘いを描いた作品だった。


プロパガンダ・デイドリーム

プロパガンダ・デイドリーム

*1:別に自分はそのアナウンサー個人を批判したりするつもりはないのでリンクは貼らない

*2:それが謝罪の言葉として適切なのは、例えばネットでの犯罪予告とかだろう