「ヒロシマ」についての二冊。
本論に入る前の前おき。
昔観た「金八先生」の中で武田鉄矢扮する金八先生が生徒に語っていた言葉が、妙に頭に残っている。別に熱心に観ていたわけではないし、その時もたまたまそのシーンを目にしただけだったと思うので細かい部分は定かではないが、確かこんな感じのセリフだった。
・・・先生は「父の日」が嫌いです。「母の日」も嫌いです。普段からお父さんお母さんを尊敬し、大切にしているならば、わざわざそんな日にお祝いをする必要はないはずです。・・・
この言葉には妙に納得した。何というか、父の日、母の日に限らず「特別な日」に特別に何かがなされる、ということに対して違和感のような、白々しさのようなものを感じてしまうことがあるのだ*1。
言わずもがな、今日は広島に原爆が落とされた日。テレビでもそれに関する報道がなされていたけれど、やっぱり「う〜ん」というモヤモヤしたものを感じてしまう。
何でこんな前振りをしたかというと、「原爆投下の日」に原爆に関する書籍を紹介する、ということに、ヘンな「気恥ずかしさ」みたいなものを感じてしまうから。
・・・まあ実際には「単に中二病が完治してないだけだろ」ということなのかもしれないけれど。
さて、そんな自意識過剰な前フリはこの辺にして、本題。
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ヒロシマを持ちかえった人々―「韓国の広島」はなぜ生まれたのか
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ちなみにこの二冊は両方とも今年の前半に読んだ。別に「ヒロシマについての本を読もう」と思ったわけではなく、気が付いたらヒロシマに関する、かなりアプローチの違う二冊を読んでいたので、比べてみたら面白いかなあ、と思った次第。
前者は去年映画にもなっているので、結構有名だろう。「ヒロシマ」について語るという場合、やはり強調されるのはその悲惨さ・残虐性であることが多い。もちろん原爆投下は悲劇であり、残虐なものではあるのだが、一方でそれ(だけ)を強調することで見えなく(見えにくく)なってしまうものもあるように思う。例えば、ある人々にとって「ヒロシマ」は特別なことでも「過去」のことでもなく(あるいは毎年8月6日に立ち現れることでもなく)、空気のように、「現在」や「日常」に「在る」ものなのだということを、この作品は描こうとしたのではないかと思う。
一方、後者はタイトルが示すように、朝鮮半島出身の(かつ、戦後帰国した)被爆者について書かれた本。本書によれば約70万人の被爆者の内、7万人、つまり約一割が朝鮮人だったという(広島のみでは5万人)。その中で即死を免れた3万人の内、2万3千人が帰国し、今なお多くの在韓被爆者が後遺症を抱えながら暮らしている*2。
韓国の中でも特に陜川<ハプチョン>は出身者に被爆者が多く、「韓国の広島」と呼ばれているということを本書ではじめて知った。
「ヒロシマ」は広島だけでなく韓国にも「在る」。アメリカ、南米、北朝鮮にも。もしかするとイラクや、その他の場所にも。そして「いま、ここ」にもヒロシマは在るのだ、ということを、改めて思う。