鄭大均「在日・強制連行の神話」を検証する(6)


さて、鄭大均氏の「〜神話」についての記事もこれで六回目となる。

鄭大均「在日・強制連行の神話」を検証する(1)
鄭大均「在日・強制連行の神話」を検証する(2)
鄭大均「在日・強制連行の神話」を検証する(3)
鄭大均「在日・強制連行の神話」を検証する(4)
鄭大均「在日・強制連行の神話」を検証する(5)
関連:「強制連行」か「戦時動員」か?



今回は「〜神話」初読時に一番疑問に思った部分、さらに言えば一番問題があるのではないかと思う点について取り上げる。



在日・強制連行の神話 (文春新書)

在日・強制連行の神話 (文春新書)



鄭大均氏は「第四章『朝鮮人強制連行の記録』再考で以下のように書く。


朝鮮人強制連行の記録』の著者の被害者性を売り物にする態度が、本来は、在日にとっても恥ずべきことであったということはすでに記した*1。この恥ずべきことがやがてお手本となっていく過程で、在日たちが失ったのは、朝鮮人として生まれたという理由で、差別され疎外されるという理不尽さを克服するための自助努力とでもいうべきものではなかっただろうか。無論、こうした自助努力が不要になったということ自体は喜ぶべきことである。ある特定の人種や民族を出自として生まれたというだけで、差別や疎外の対象になるという状況は、なによりも、当事者を傷つけ、不幸に仕立てあげやすい。マイノリティの人生にはあやうさがつきものである。

だが一方で、かつての日本には、不利な立場で生まれてきたがゆえに、他人よりも努力して自分を鍛えるとか、理不尽さに向き合う過程で、ある種の奥行きを備えた人間が生まれるという「逆境の効用」とでもいうべき状況もあった。それに比べると、今日の日本に見てとれるのは、コリアンであることを自己表示するや、ある種の権威や権力を得るという状況で、これでは自分をスポイルすることになりはしないか。

個人的にいえば、私は八○年代から九○年代の大部分を日本の外で暮らし、したがって在日論の転換といっても、実感しにくいところがあるのだが、九○年代の半ばに日本での生活を再開し、メディアを通して、新しい在日論に接し、印象的だったのは、かつては差別され疎外するゆえ自分に向けられていた疑念が、今の時代にはもっぱら他人に向けられているという傾向であり、『朝鮮人強制連行』に、今つけ加えようとしている批判もこのことと関係がある。

より良い生活をするために、私たちは、祖国や日本との関係をどのように変えていったらいいのか。これがおそらくは多くの在日コリアンが共有する関心事であると思われるのだが、被害者アイデンティティに身を任せた人間は、前向きの人生を選択しない。つまり彼らが関心を寄せるのは、日本人とコリアンのより良い未来の模索などというよりは、「不幸の科学」(レイモン・クノー)の歴史であり、その在日版の元祖的な位置にあるのが、『朝鮮人強制連行の記録』を著した朴慶植なのである。(「〜神話」p157〜159)

被害者アイデンティティに人生の根拠と動機を見いだしている人間には、自己責任の感覚がない。自己責任の感覚が欠けているということは、自己検討の機会を自ら遠ざけているということであり、それは、北朝鮮に対する幻想が幻滅に変わった後になっても、北朝鮮との関係を持続させる契機になってしまう。(「〜神話」p164〜165)

鄭大均氏の主張をかいつまんで言えば「かつての在日は差別や逆境をバネに自らを磨き、鍛えていた。しかし今日(以前に比べれば差別や逆境は弱まっているにも関わらず)「〜記録」に影響された在日コリアンは被害者としての立場に甘え、他人を責めるだけで主体性や責任を放棄している」ということだろう。



以上の鄭大均氏の主張には差別を正当化し、責任を被差別者の側に転嫁している、という批判もできるだろうが、一番の疑問は、彼の主張が全く現実に則していないのではないか、ということだ。


在日は「かわいそうな被害者」か?

私事になるが、自分はミクシィ在日コリアンと日本人が交流するコミュに入って一年以上になる。そこで様々な議論や意見交換をしたり、また実際に会って話を聞いたりもしたが、少なくとも自分の経験では、鄭大均氏が言うような「被害者アイデンティティ」を売り物にするような在日コリアンとは出会ったことがない。むしろ民族意識・問題意識が高い人(すなわち「〜記録」なども読んでいると思われる人)ほど、被害者性―すなわち自らを「弱者・かわいそうな人」と捉えたり、そう見なされたりすること―を拒否し、主体性を大切にしているように思える。



また、自らのアイデンティティについて悩んでいる、悩んでいたことがあるという話は時々聞くが、それは「被害者アイデンティティ」というよりは日本と母国(韓国・北朝鮮)の狭間で自らをどういう立場として捉えるか、という問題のように思える。その結果、自らを日韓(日朝)の両方を客観視できる存在、双方の架け橋となりうる存在であると前向きに捉えている人も多い。



もちろん、自分が出会った在日コリアンはほんの一部に過ぎないし、自分が知らないところに鄭大均氏が言うような「被害者アイデンティティ」にとらわれている、あるいは売り物にしている在日コリアンがいるかもしれない*2。しかし、仮にそうした在日がいるとして、その原因が朴慶植氏の「〜記録」にあるという鄭大均氏の論は粗雑に過ぎる。



そもそも鄭大均氏のいう「かつて(在日が逆境をバネに自らを鍛えていた時期)」と「今日(在日が被害者性を売り物にしている時期)」というのもずいぶん曖昧だ。恐らくは彼が日本を離れていた80年代〜90年代半ばを間に挟んだ前後と思われるが、その時期を境に在日がより「被害者性」をまとうようになったとは思えない*3



日本人側から見れば、むしろ80〜90年代頃は「在日=かわいそうな被害者」というステレオタイプな見方が徐々に薄れていった時期であるように思える。例えば93年に製作された映画「月はどっちに出ている」(崔洋一監督、岸谷五朗主演)は、それまでの「かわいそうな被害者」というようなステレオタイプの在日ではなく「ふてぶてしく、たくましく生きる在日」を描き、在日にまつわるタブーや差別をも痛快に笑い飛ばした作品で、単館映画としては異例のヒットを記録し、数々の映画賞も受賞した。またこれは2004年の作品だが「パッチギ!」(井筒和幸監督、塩谷瞬主演)も大きな話題を呼んだのは記憶に新しい。





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まとめ

さて、鄭大均氏はなぜこのような現状をねじ曲げた(と現時点では判断せざるを得ない)論を展開するのか。つまるところ、鄭大均氏はこう言いたいのだ―「強制連行なんて過去のことにこだわるのは、在日にとっても日本人にとっても不幸なことだ」―と。



これに対しては言いたいことが山ほどある*4が、ここでは鄭大均氏が「共感する」という*5金英達氏の言葉を紹介して、むすびにかえる。これは在日に対して向けられた言葉で、一見すると鄭大均氏やその賛同者が喜びそうな内容だが、その自分たちの歴史に向かい合う態度を日本人に当てはめて考えてみると非常に示唆的である。


過去の歴史の真実を明らかにすることは、心地良いことばかりではありません。私たちが日本の朝鮮植民地支配の歴史を学ぶとき、近代化に失敗し植民地に転落した負の民族史に立ち向かわなければなりません。植民地からの解放を自力で勝ち取ることができなくて、統一した独立国家の再建ができなかった南北朝鮮の分裂という現実に直面しなければなりません。近現代史に登場する朝鮮人は、独立運動に命を捧げた英雄ばかりでなく、日本の植民地支配に協力した醜い親日派もいます。わが民族史における強さ素晴らしさを取り上げてそれを継承するとともに、弱さ・醜さの原因を究明してそれを克服することも、歴史研究の課題なのです。*6

朝鮮人強制連行の研究 (金英達著作集) (金英達著作集 2)

朝鮮人強制連行の研究 (金英達著作集) (金英達著作集 2)

*1:鄭氏は少し前の部分(p151〜152)で、在日一世は自分の意思で日本にやってきたことを自覚しているのに、一・五世(幼少時に保護者と共に渡日した者を指す言い方)の朴慶植氏が「朝鮮人は自ら好んで日本に渡ってきたのではなかった」と言うことは、一世の自発性を否定する「本来なら恥ずべき行為であったはず」と主張する。

*2:作家の柳美里氏に対して、大月隆寛氏がそういう批判をしている。彼女の作品や言動については詳しくないのでここでは判断を留保しておく。

*3:付け加えるならば、鄭大均氏の言う「メディアを通して」触れたという「新しい在日論」とは、恐らくは彼が批判的な姜尚中氏や辛淑玉氏によるものだと思われるが、「古い(すなわち鄭氏が「逆境をバネにしていた頃」とする時期の)在日論」については言及も示唆もしていない。

*4:例えば鄭氏は、東京裁判の不当性を訴える右派論客を「被害者アイデンティティにとらわれている」と評するだろうか?など。

*5:もちろん、イヤミだ。

*6:金英達著作集II」p24