「マンガ嫌韓流」の強制連行否定論を検証する。


今日、「マンガ嫌韓流4」が発売したらしい。まだ読んではいないが、k3altさんのこの記事を読む限り、まあ、ロクでもないわな。


ということで「発売記念」というわけではないが、以前ミクシィに書いたマンガ嫌韓流の強制連行否定論の検証記事に加筆したものを再掲しておく。





まず「マンガ嫌韓流」の強制連行についての主張は以下の通り。


1.終戦直後には200万人の朝鮮人がいたが、この200万人の朝鮮人は強制連行で日本に連れてこられたわけではない。もし強制連行でやって来た朝鮮人がいたとしてもみんな帰っていったはず。(p83・85)


2.当時「強制連行」という名の政策はなかった。「強制連行」とは朴慶植の「朝鮮人強制連行の記録」(1965年)という本により広まった戦後の造語だ(p85・86)。


3.朴慶植は鎌田沢一郎の「朝鮮新話」の引用に際し、「但総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、上司の鼻息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやつてのけたのである。」という部分(「マンガ嫌韓流」ではここを「末端の朝鮮人官吏が暴走して実行した」と解釈している)を省略し、政策としての強制連行があったかのように見せかけた。(p86)


4.朝鮮人戦時動員のひとつである官斡旋は、斡旋された仕事先を辞めても罰則がなく、日本内地や台湾での『徴用』と比べると格段に軽いものだった。(p87)


5.つまり、日本国民の義務だった「徴用」を「強制連行」という言葉にすり替えているだけだ。 (p88)


1.について。朴慶植の「朝鮮人強制連行の記録」には、いわゆる「強制連行」(1939〜1945年)以前から朝鮮人が移住していたことも、戦時動員によって来日した朝鮮人の多くが戦後帰国したことも書かれているし*1、そもそも研究レベルでは常識で、隠されていたわけではない。ただほとんどの日本人が知らなかっただけだ(これは学校教育の場で「強制連行」が特化して教えられ、戦後の在日朝鮮人史についてはほとんど扱われていない、というのも原因のひとつと思われる)。


ちなみに「マンガ嫌韓流3」では朴一氏が「在日コリアンのすべてが『強制連行』被害者とその子孫である(という)のは間違いだ」と述べていることに触れ、まるで鬼の首でも取ったかのように大はしゃぎしているが、上記のようにそれは専門家や研究者にとっては常識なのだから、朴氏の発言は何ら驚くことではない*2


2.の「当時『強制連行』という名の政策はなかった」だが、当たり前である。政府がそんな露骨な言葉を使うはずがない。


また「『強制連行』とは朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』(1965年)という本により広まった戦後の造語だ」という事の、何が問題なのだろうか。山野氏は、例えば「縄文時代に『縄文土器』という言葉は存在しなかった。『縄文土器』とは近現代の歴史学者の捏造だ」などと主張するのだろうか(ここまで極端でなくとも、ある時代の出来事や現象などに、後に名前がつけられるのは歴史学上珍しいことではない)*3


あるいは、朝鮮人で、しかも朝鮮総連に属していた人間が作った言葉だからこそ問題なのだ、ということであるかもしれない*4


ならば、日本人はそれまで朝鮮人に対する戦時動員を何と呼んでいたか。例えば元朝総督府の官僚、鎌田沢一郎は「朝鮮新話」(1950)で「労務動員の強制」「誤つた強制徴用」と表現していた。あるいは森田芳夫(外務事務官などを歴任)は「在日朝鮮人処遇の推移と現状」という文書(1955)で「強制移住」と表現している。


つまり日本人の官僚も「強制」という実態は認めていた。


次に3.の鎌田沢一郎の「但総督がそれまで強行せよと〜」について。


朝鮮半島での動員には現地の募集係や面(日本でいう「村」)巡査、面書記、面長などが直接タッチし、その中には朝鮮人「も」いたが、日本人もいたのである。この点については「日韓 新たな始まりのための20章」(岩波書店、2007)で外村大氏は次のように述べている。


「また、実態として、面の職員が自己の判断で暴力的連行を積極的に行う事例が一般的であったかどうかも疑問である。そうした行為は被動員者およびその家族から恨みを買い、村落秩序の混乱をもたらすもので、面職員にとっても危険を伴うからである。むしろ、より上位の行政機関の圧力を受けて遂行したケースが多かったという推測が成り立つ。この点については企業の募集担当者がしばしば、郡や警察は協力的だが面職員は誠意がないといった報告をしていることからも裏付けられよう。前記の鎌田の指摘は、事実の一部分のみを取り出し、暴力的な動員の責任を朝鮮人末端職員に押付けたものと解釈すべきである。

(p58・59)


また、彼らによって乱暴・強引な(当時の法に照らし合わせても違法な)連行・送出がなされたことは、当然総督府も知っていた。にも関わらずそのような乱暴な連行をした者が処分されたという記録はない。


そもそもなぜ乱暴な連行が行われたかというと「そうでもしなければ人が集まらなくなったから」である。しかし時代は逼迫した戦時、どうやって集めたかを詮索する余裕はない。つまりそうした行為はほぼ「黙認」されたのだ。それを「末端の者がやったことだから」と責任転嫁するような態度を取るのは、汚職を追求された政治家が「秘書がやったことで自分は知らなかった」と言うのと同じ、無責任な発言と言えよう。


4.について。確かに募集や官斡旋において忌避者・逃亡者に対する法的罰則はなかった。しかし実際には上記のような役人や警官、場合によっては特高の刑事が立ち会って恫喝するなどの権力を背景にした圧力をかける例が多く存在した。


当時、過酷な労働条件に耐えかねて多くの朝鮮人が労働現場から逃げ出したが、それを防止するために塀で囲まれた寄宿舎に住まわせて行動を制限し、また逃亡して捕まると見せしめのためにリンチが加えられることも多かった。その結果死者を出しても、その事実が揉み消されてしまうことも少なからずあった*5。これが「格段に軽い」と言えるだろうか。


最後に5.の「日本国民の義務だった『徴用』を『強制連行』という言葉にすり替えているだけだ」という点。


「日本国民の義務」と言うが、果たして(狭義の)日本人に対する徴用と朝鮮人に対する徴用は同等であったのか。答えは否である。先に示したように、多くの動員先で朝鮮人労務者は差別・虐待された。また、よく「炭坑は給料が良かった」と言われるが、実際は様々な名目で賃金を強制的に貯金されたり、天引きされたりする例もあった。また約束されていた家族への送金が行われなかった例、酷い例では家族にも知らせず連行されたため、家族の方ではてっきり本人が死んだものと思っていた、というケースもある。


このように明らかに日本人の徴用とは実態が異なっていたのだから、後に「徴用」とは違う呼び方がされたのは当然であろう。だからこそ森田芳夫も「強制移住」という言い方をしたのである。


最初に述べたように「マンガ嫌韓流」は一貫して「強制連行は捏造」という立場をとっており、また当時は日本人と朝鮮人の間に限りなく理想的な友好関係が築かれていたと主張する。しかし、実際の戦時動員は上記のような実態であった。ちなみに終戦直後、朝鮮人労働者がいた炭鉱では多くの労務係が「報復を恐れて」逃げ出している。「限りなく理想的な友好関係が築かれていた」ならば、どうして報復を恐れる必要があっただろう*6。<追記>参考資料


(1)「社会科教科書における在日韓国・朝鮮人関係記述 −中学校教科書を例にして−」


(2)外村大「朝鮮人強制連行―研究の意義と記憶の意味―」


(3)鄭大均「在日・強制連行の神話」を検証する(5)


(4)外村大「朝鮮人強制連行―その概念と史料から見た実態をめぐって―」

*1:http://d.hatena.ne.jp/gurugurian/20090203#2

*2:ただし朴一氏による「『マンガ嫌韓流』のここがデタラメ」の強制連行に関する記述は若干問題があるように思う。

*3:例えば「ホロコースト」という言葉も、ナチスによるユダヤ人等の大量虐殺を指す用語として使用されるようになったのは戦後のことだ。

*4:そもそもこのような考え方自体、偏見と差別意識を内包している。

*5:http://d.hatena.ne.jp/gurugurian/20090110

*6:当時、労務係、つまり労務者を管理する立場には朝鮮人も採用されていた。彼らもしばしば、見せしめやペナルティとしてのリンチに加担した。そうした者の中には同胞の恨みを買い、戦後に報復を受けた者、殺された者、あるいは報復を避けるため、故郷へ帰ることを思い止まった者もいた。