鄭忠海「朝鮮人徴用工の手記」(1)


先日取り上げた、鄭忠海朝鮮人徴用工の手記」を読了。


筆者の鄭忠海氏は1919年生まれ。1944年に徴用によって広島の東洋工業に動員。翌年の原爆投下により被爆し、終戦後に帰国した。この本は、在韓被爆者渡日治療活動に携わっていた井上春子氏が、鄭氏の手記を見せてもらったことがきっかけで出版に至ったものだ。


古庄正ほか「朝鮮人戦時労働動員」によれば、本書は岡田邦宏や西岡力、杉本幹夫などによって「強制連行否定論」の根拠にされているという。また、毎度お馴染み(?)「強制連行論のイザヤ・ベンダサン*1こと鄭大均氏も「在日・強制連行の神話」でこの本の一節を引用し、「それを読む限り『強制連行』という言葉は事実を歪めているという印象を受ける。」*2と述べている。


実際本書を読んでみると、鄭忠海氏は被動員者としては(被爆したことを除いては)比較的恵まれた環境だったようだ。食事もそれなりに充実していたようだし、日本人による差別や虐待の描写もほとんどなく、また日本人女性との恋愛話などもあり*3、そういう意味では牧歌的とさえ言えるような部分もある。


ただし、このような鄭忠海氏の例を戦時動員の典型例のように見なすのは誤りだ。一口に戦時動員と言っても、その動員先の地域や職種、時期によって待遇は異なる。例えば「百萬人の身世打鈴」では1941年、東京製鉄に動員された李永六氏が「食生活はよかったです。朝食、昼食、夕食の他に間食として握り飯とか、さつまいもが出されました・・・寄宿舎は一部屋に四人で、ベッドは一人に一つで、キャビネットが付いてそこに個人の品物を納めました。待遇はよかったです。」(p447)と語っているが、一方でリンチが横行し、まともな食事が与えられなかった例(その中には配給物資の横領や横流しがあった例も見られる)や、賃金が約束通り支払われなかった例、全く支払われなかった例も多い。

こうしたばらつきは、例えば元日本兵の体験談にも見られるだろう。全く食料がない状況で激戦をくぐり抜け、九死に一生を得たという人もいれば、全く戦闘を体験することなく豊富な食料に恵まれ、むしろ入隊前より除隊後の方が健康になってしまったという人もいる。後者の例をもって、あたかも日本軍兵士がさほど苦労していないかのように言うのが誤りであることは言うまでもない。


なお、「朝鮮人戦時労働動員」では、鄭忠海氏が動員された東洋工業の待遇が比較的良好だった理由*4として、同社が1944年末になって初めて朝鮮人を雇用した企業であることを挙げている*5。だからこそ寄宿舎も新築のものが用意されていた。一方、動員先で最も多いのは、戦時動員以前から朝鮮人を多く雇用し、労務管理システムが確立されていた炭鉱である*6。そうしたことを考えれば、鄭忠海氏の例が戦時動員の典型とはとても言えない。


もちろん、鄭忠海氏の体験が例外的なものだからといって、彼の体験を軽視したりすべきではないだろう。「朝鮮人徴用工の手記」は朝鮮人戦時動員を多面的に捉えるためにも貴重な資料と言える。ただ、それが鄭忠海氏の本意に反して強制連行否定論の根拠として利用されているのは非常に残念だ。「朝鮮人徴用工の手記」は次のような言葉で結ばれている。

祖国が日帝植民地治下から解放されていつしか四十五年、今は過去の怨恨がきれいに清算されて、韓日両国が善隣友邦として相互に協力提携していければと願っている。

しかしながら植民地下での三十六年間における、祖父母、両親にわたる迫害、蔑視、冷遇などの恨みが消えるものではない。特に我々三世の代はいわゆる大東亜戦争にまきこまれて犠牲になった者が数多く、生き残った者はもちろん、子孫(四世)にいたるまで、親子四代にわたった怨恨は、四十五年すぎた今にいたっても解消しきれるものではない。

程度の差こそあれ、この時代を生きてきた者の胸の奥には、しこりが残っているだろう。

とは言え、このたびの思いがけない本書の刊行にあたって、この個人的な記録が、韓国と日本の関係やその両国の人々の友好を損なうことがないようにと、願う気持ちが今は切である。
(p241)


朝鮮人徴用工の手記

朝鮮人徴用工の手記

朝鮮人戦時労働動員

朝鮮人戦時労働動員

在日・強制連行の神話 (文春新書)

在日・強制連行の神話 (文春新書)

百万人の身世打鈴(シンセタリョン)―朝鮮人強制連行・強制労働の「恨(ハン)」

百万人の身世打鈴(シンセタリョン)―朝鮮人強制連行・強制労働の「恨(ハン)」

*1:例によってこう呼んでいるのは自分だけだが。ちなみに「にせユダヤ人」だったイザヤ・ベンダサン(こと山本七平)と違い、鄭氏はまぎれもないコリアン(現在は日本国籍を取得)だが、中途半端な知識で保守層に阿った主張をする点ではイザヤ・ベンダサンと同レベルと言える。

*2:「〜神話」p49

*3:なお、多くの日本人男性が徴兵に取られていたこともあり、戦時中の日本人女性と朝鮮人男性の恋愛や結婚は少なくなかったようだ。また終戦後にそうした男女が帰国などにより別れ別れになった例も多い。

*4:また、鄭忠海氏が自身の月収を140円と述べていることについては、1944年の募集広告に掲載された他の企業の月給に比べ「140円」という数字が高過ぎることを挙げ、鄭忠海氏の記憶違いではないかということを示唆している。

*5:朝鮮人徴用工の手記」には、入所まもない頃に行われた演芸会がきっかけとなり、職場の日本人女性から“半島出身者は未開地から来た愚かな人だと田舎の両親から聞かされていたが、それは間違いだった”と言われるくだりがある。このことは、それまでその職場に朝鮮人がいなかったことを示唆している。また、彼らが好待遇を受けたのは、職場の青壮年男性の殆んどがいなくなってしまい、徴用されてきた朝鮮人に頼らざるを得なくなった、という事情もあるのではないかと思う。

*6:そもそも朝鮮人戦時動員は、筑豊石炭鉱業会が朝鮮人労務者の集団移入を要請したのが始まりであった。