鄭忠海「朝鮮人徴用工の手記」(2)

ところで、ネットで「鄭忠海」を検索してみると、ヒットする書き込みの多くが強制連行否定論の書籍*1で引用されている部分を挙げている。ここから推察するに、実際に「朝鮮人徴用工の手記」を読んだ上での書き込みはほとんどないように思える*2


前にも述べたように「朝鮮人徴用工の手記」は徴用された当事者による記録として非常に重要な資料である。それが強制連行否定論の根拠として利用されるのは記録を残した鄭忠海氏にとっても不本意なことであろう。そこでここでは「朝鮮人徴用工の記録」の中から、ネットであまり出回っていない、興味深い記述をいくつか紹介してみたい。


朝鮮人徴用工の手記」では、「強制連行」という言葉こそ出てないものの、それに類する表現は何度も登場する。また、当時の朝鮮人が徴用で日本に連れて行かれることをどのように受け止めていたかが窺える箇所もある(以下、太字による強調は引用者)。

旅館で夜明けに食事をすませ、朝早く釜山港第一埠頭広場に集合をした。整列した徴用者たちは、日本から来た各工場、その他の引受責任者に引き継がれるらしい。ここまで我々を引率してきた各区庁労務課職員たちは、無事に彼らに引き継げば責任が終わるのである。

今の我々の姿は何かの映画で見た、奴隷市場で売買される奴隷たちの姿に似ている。国を失った民族の哀しさよ。

これから私はどこかの、何をするかわからないところに連れて行かれようとしている。ただ北海道の炭鉱にだけは行かないことを願うのみである。噂によると炭鉱では死傷者が沢山出ているという。今のこのときが、私の生死の岐れ道になる重大な時なのだ。(p15)

このとき(引用者注:鄭忠海氏らを乗せた連絡船が釜山を出港する時)、涙を流さなかった朝鮮人は一人もいなかっただろう。それこそ断腸の思いでの別れであった。

我が祖国、我が民族の為に、闘いに行く、働きに行くのなら、諦めもできよう。だがよその国家と民族のために強制的に動員されていく身の上、弱小民族の悲哀。船上には冷たい雨さえしとしとと降り始め、それでなくても侘しい流浪の心をより乱した。(p17)

日本にきて、先ず最初に感じたのは山水の美しさだった。我が故郷の山河はみんな赤茶けて荒廃そのものだが、日本の山河は書画を見るように山紫水明、荒廃した山というのは目につかなかった。

我が故郷の山河はもともと荒廃していたのか。いや、昔は青山緑水の本当に美しい錦繍江山だった。日本は我が山から木々を手当たり次第に乱伐して、松という松は大小を問わず全て“松脂”をかき集めて“油”を作った。こんな状態で山の木が残るだろうか。山という山は荒廃して、洪水のたびに河川は氾濫した。

農村の家屋は様式が若干違って見えるが、我が朝鮮の農家と大同小異である。私は今何を考えているのだろうか。強制的に動員されている身で、風景の美しさや農家の様式などに感心していてはいけない。いや良いものはよい、殺伐として荒れた所よりも豊かで美しいところが良いではないか。(p20)

今ここにきている人は、ソウルの社会の中でそれぞれ活躍していて、強制的に引っ張られて来た人々が大部分ではないか。日本に残っている人々は、指導層に属する人を除いては、殆ど老弱者、婦女子、未成年か身体障害者が大部分だ。たとえ徴用というよからぬ名目で動員されてきて、作業服をまとい奴隷のような扱いを受けていても、故国では優れた紳士たちだ。(p38)


特に興味深いのは、次の部分だ。

私は笑いながら、「本当に工場のなかは女性たちでいっぱいではないですか。それもみんな適齢期の美しい娘さんたちで、その花壇のようなところで、我々若い男はどんなに楽しいか。だからそう話したのです」と答えた。

彼女はにっこり笑いながら、「女性が多いのでよいのですか」と、言葉を続け、「実は彼女たちもみなさんと同じように、全国各地から女子挺身隊員として動員されてきた娘さんたちです。みなさんと違うところがあるとすれば、性別がちがい、また彼女たちは自分の国家と民族のために仕事をしにきたことです。私が改めて言わなくてもよくご存じだと思います。本当にご苦労さまです」と頭をさげるのだった。

岡田さんが言いたいのは、我々(日本人)が自分の国家と民族のために戦い、仕事をするのは当たり前だが、あなたたちは強制的に動員されて、しなくてもいい苦労をするのではないか、という意味だろう。非国民的な話ができないので、言葉を濁したのだろう。いずれにしても日本本土でも、我々の立場と心情をわかってくれる女性がいるのだ。会ってからひと月余りで朝鮮人の気持ちをわかってくれ、それをためらわずに話してくれる。私は彼女に「ありがとう」と頭を下げた。(p46)


よくある強制連行否定論で「当時は朝鮮人も日本人であり、徴用は日本人の義務だった。それを朝鮮人に対する徴用だけ『強制連行』などと言うのはおかしい」というものがあるが、上記の記述から、当時も日本人に対する徴用と朝鮮人に対する徴用を別のものと考えていた日本人がいたことが窺える。


また、わずかではあるが慰安婦に関する記述もある。

当時、朝鮮にいた青壮年たちも各種の名目で徴用*3され、日本各地の軍需工場および炭鉱に、また戦場に動員されており、年ごろの娘たちも女子挺身隊の美名のもと、各戦線に動員されるなど時局は緊迫していた。聞くところによれば、女子挺身隊として動員された乙女たちは、戦場で軍人の慰安婦にされたという*4

年ごろの娘たちを持った親は戦々恐々としていた。未婚の女性は有無をいわさず挺身隊に動員されるので、婿になる男が見つかればとにかく無理やり結婚させた。よい家柄とか、よい婿などとは言ってはおれず、幼い男、年とった男でも結婚相手がいればよい方で、中には病身でもかまわず結婚をさせるなど、笑えない悲劇が続出していた。(p9)

「岡田さん、女子挺身隊について話すのだが、誤解をしないで聞いてください。朝鮮でも、日本と同じように未婚の女性たちが、無条件に女子挺身隊という名のもとに動員されています。国家総動員、非常時ですから、男女の区別なく国家民族のために戦わねばならない、国民として当然の義務ではあります。ところで日本本土の女性たちは軍需工場等で仕事をしているのに、朝鮮の女性たちは違うところに動員されているようです。事実はよくわかりませんが、噂によれば、朝鮮の女性たちは最前線に送られるといいます。未婚の女性たちを最前線に送って何をさせるのですか。看護婦はそんなにたくさん必要ではないし、必要であったとしても、なにも知らない女性たちに何ができるでしょう。次の言葉を想像して下さい」

彼女は驚いた表情で、「それが事実なら慰安婦?」と。女性たちを最前線に送って犠牲にしている。そんなことがあるのだろうかと首をかしげる。(p47)


慰安婦問題については勉強不足なので詳しいことは分からないが、もし上記のやりとりが事実だとすると、内地の、しかも若い女性(「岡田さん」は東洋工業で事務をしていた当時20代の女性)にもその存在が知られていたことになる。


最後に紹介するのは、鄭忠海氏が奈良の訓練所に派遣されていた1945年3月18日に大阪への空襲を目撃した際の記述だ。鄭忠海氏は「親日派」とまでは言えないまでも、それほど反日意識が強かったわけではないようだ。しかしそのような人でさえ、当時は次のようなことを感じていた。

三月十日にはB29、三○○機という大編隊が一挙に東京を襲撃したというが、今日は日本の第二の大都市である大阪をやっつけるということか。こうした状態でやってくるなら、数カ月経たないうちに、日本本土は廃墟になるだろう。やがては両手を挙げてしまうのではないだろうか。期待して見るだけだが、燃やしてしまえ、早ければ早いほどよい。一日早ければ、一日早く故国に帰れる近道になるではないか。私は心の中で良かったと思った、どうなろうと良かった。(p66)

東京がみんな焼けてしまったり、大阪がなくなったということは我れ関せずであるが、痛快というばかりだ。ただ、爆撃によって罪のない市民たちが犠牲になったのだから哀しいことだけれど、これもまた、彼らが自ら招いた災いであり、誰も恨むことはできないだろう。どんなに大声で叫んでも、我々にとっては対岸の火事というほかないことである。我々の頭上に雷が落ちてくる日が、少しずつ近づいてきているのが心配でないとはいえないが。

もう広島の番も遠くないようだ。ただ願うことは一つ、私の命をいかにしてもちこたえるかだ。そして今はただ一つ飯だ。腹一杯食べさせてくれと願うだけだ。腹さえふくれれば、空襲でも爆撃でも何も怖がることはない。飯、飯、目にちらつくのはただ飯ばかりだ。(p70)


朝鮮人徴用工の手記

朝鮮人徴用工の手記

*1:朝鮮人戦時動員」によると、「在日・強制連行の神話」の他、岡田邦宏「朝鮮人強制連行はあったのか―事実が語る『強制連行』説の虚構(日本政策研究センター、2003年)」、西岡力朝鮮人『強制連行』説の虚構(下)」(「月曜評論」2000年10・11月号)、杉本幹夫「日本支配三十六年 『植民地朝鮮』の研究 謝罪するいわれは何もない」(展転社、2002年)が鄭忠海氏の記述を「強制連行否定論」の根拠にしているという。なおこれらの内「〜神話」以外の文献については未読なので、今回は言及しない。

*2:もっと言えば、そうした書き込みの多くが他の書き込みのコピーで、否定論の書籍すら読まずに書き込みをしている可能性も高い。

*3:韓国では、徴用令によるもの以外の労働動員(官斡旋など)も「徴用」と呼んでいる。これは、動員される側からすれば、その法律的根拠がどうであれ同じように見なされていたことを示している。当時についての証言で、しばしば朝鮮半島での一般徴用が始まる前の時期(1944年9月以前)の動員が「徴用」と呼ばれるのはそのためである。

*4:女子挺身隊として動員された女性が全て慰安婦にされたわけではなく、日本内地の工場などで働かせられた女性たちもいる。ただしこの場合も「学校へ行かせてあげる」「仕送りもできる」と言われながら、実際は学校へも行けず、低賃金で酷使された場合が多かった。また韓国では「女子挺身隊=慰安婦」と誤解され、彼女たちは帰国後も差別や偏見に苦しめられた。