呉智英先生に聞いてみたいこと。

[独り言][ことば]呉智英先生に聞いてみたいこと。

こちら(http://d.hatena.ne.jp/Prodigal_Son/20080611)で呉智英氏の名前を見て、ふと思った。

確か、氏は在日コリアンの名前を韓国語読みで表記することを批判していた。

例えば「姜尚中」だったら「カン・サンジュン」ではなく「かん・しょうちゅう」とすべきだと。日本語にない「韓国語読み」を認めることは「日本語の破壊になる」というのが理由だったと思う。

先生は、「餃子」「炒飯」「麻雀」「達磨」などはどう読むのだろう。



<2008.6.24追記>

コメント欄で↑の呉氏の主張のソースは?というご質問をいただきました。ソースは、別冊宝島のムック「嫌韓流の真実!ザ・在日特権」です。ただ、立ち読みで読んだだけで内容はうろ覚えだったのですが(↑で「確か・・・思う」と曖昧な書き方をしていたのはそのため)、「ザ・在日特権」というタイトルで文庫化していたので購入してきました。呉氏は「常識的在日論」と題した章で、帰化の問題について触れた後にこう述べています。<引用開始>

姓について、もうひとつ言っておかなければならない。かつては認められにくかった民族名(金、朴、李などの)が、今では認められるようになっている。それはいいのだが、これを朝鮮音で読むように強制することには反対しないわけにはいかない。日本人が朝鮮語の勉強を強制される理由はないからだ。辛淑玉<ルビ・しんしゅくぎょく>という人材育成コンサルタント(理解に苦しむ職業だが)がいる。彼女は自分の名前を「しん・すご」と読ませているが、こんな無理な話に付き合わされてはかなわない。作家の柳美里<ルビ・りゅう・みり>など「ゆう・みり」と読ませているが、そもそもこれは朝鮮語読みでさえない。日本人の音韻体系にない音を強制する理不尽に唯々諾々と従うことは、日本文化に意味のない亀裂を生じさせるだけなのである。<引用ここまで>


こうやって書き出してみると、かなり記憶違いがありました。「在日コリアンの名前を韓国語読みで表記することを批判」ではなく「朝鮮語で読むように強制することには反対」、「日本語の破壊になる」ではなく「日本文化に意味のない亀裂を生じさせる」でした。

ただ、それでもやはり呉氏のこの主張には首を傾げてしまいます。

そもそも、「辛淑玉」さんが自分の名前を「しん・すご」と読んで欲しいと要求することが「強制」「朝鮮語の勉強を強制」することなのか?という問題があります。「辛淑玉<シン・スゴ>」という表記を見て、「朝鮮語の勉強を強制されている!」と感じるというのはどうなんでしょう。


もうひとつ、「たかだか朝鮮語の名前の読み方を受け入れただけで『亀裂が生じる』ほど、『日本人の音韻体系』とやらはヤワなのか?」ということ。

日本語における漢字と読み方の関係の話をし始めると話が長くなってしまいますが、この二つの関係は案外ルーズというか良い加減で、しかしそのルーズさが「日本語の豊かさ」をももたらしたのだと思っているので、呉氏のような発想は、原理原則にとらわれすぎて日本語(に限らず、言語全般)の柔軟性を無視しているように感じられます。



まあ、この辺の問題は、掘り下げてみると面白そうなので、気が向いたらまた記事にするかもしれません。

ただ、基本的にはものぐさなので、いつになるかは分かりませんが。