再掲「朝鮮人強制連行の記録」のp98、及び「証言 朝鮮人強制連行」p121〜123より。


一九四五年八月一五日、日本帝国主義の敗亡による朝鮮の解放は日本に連行された朝鮮人労働者に解放への歓喜をもたらし、朝鮮人労働者は懐しい故国に向って先を争って帰国した。(中略)朝鮮人は自力で大小の漁船を借り入れるなどの可能な一切の方法を利用して山口県、福岡県の各港に集結し、生命の危険をもおかしながら帰国した。事実、何年目かに故国を眼前に見ながら釜山沖で機雷による乗船の沈没という悲劇もあった。こうして八月一五日から一一月三○日までに自発的、集団的帰国者五二万五、○○○名を数えた。


朝鮮人強制連行の記録

朝鮮人強制連行の記録


「解放の日<ヘバンウイナル>(引用者注・1945年8月15日のこと)」は文字どおり、強制連行、強制労働からの解放の日であった。


(中略)すべての朝鮮人強制連行者が、帰国を急いだ。夢にまで見た故国の土を一刻も早く踏みしめたいという気持が混乱を激しくした。数十万人を越える帰国希望者を運搬する輸送手段は整っていず、日本側の敗戦による体制の混乱が、この混乱に拍車をかけた。


(中略)そのような状況のなかで、日本に進駐した米軍は朝鮮人の帰国を一時停止し、港に朝鮮人終結することを禁止した。このような禁止処置は、朝鮮人の帰国の要求をさらに激しいものにした。


(中略)このような混乱に加えて、炭鉱等に連行された朝鮮人労働者の帰国要求に対して、炭鉱と日本政府、ならびに進駐米軍は、採炭夫の半数以上の朝鮮人連行者が帰国することにより、石炭出炭量が激減することを恐れ、引き続き炭鉱での労働を強要した。


このような労働強制に対して、朝鮮人労働者は激しく反発し、即時帰国を要求して、立ち上がった。


進駐米軍は、再三にわたって布告を発し、朝鮮人労働者の闘争を弾圧しようとし、さらには“進駐軍”のために石炭を掘ることを要求し、“解放者”としての仮面をかなぐりすてた。


しかし米軍の布告ぐらいでは、朝鮮人労働者の帰国要求は抑えられず、かえって各炭鉱での朝鮮人の闘争をあおりたて、蜂起は全国の炭鉱に広がって行った。事態が混乱し、収拾が困難になるにしたがい、進駐米軍も、朝鮮人強制連行者を帰国させる以外にこの混乱を収拾する方法がないことを認め、彼らの帰国が再開された。


強制連行者の多くは、この時期に帰国した。しかし、もろもろの事情により、夢にまで見た故国に帰れない強制連行者も少なくなかった。


(中略)朝鮮人強制連行者は、いろいろの立場から解放の日を迎えた。ここに収録できたのは日本に残った人たちの記録であり、強制連行者のうち、日本に残ったのは、連行されたもののうちの十分の一程度ではなかったろうか?多くの強制連行者は、祖国に帰されることを望んだし、そのために大々的な闘争がくり広げられもした。


このようにして、朝鮮人強制連行者のうち帰国できた者は帰国し、種々の状況から帰国できなかった人たちは日本に残った。


証言朝鮮人強制連行 (1975年)

証言朝鮮人強制連行 (1975年)


(太字による強調は引用者)