鄭大均「在日・強制連行の神話」を検証する(4)

続々・「『朝鮮人強制連行の記録』再考」再考―朴慶植北朝鮮に「遠隔操作」されていたのか?

前回の記事では、鄭大均氏が金英達氏の記述を恣意的な形で取り上げ、朴慶植氏の「〜記録」が「方法論的いかがわしさ」に満ちた書籍だという印象操作を行ったことを明らかにした。今回は、「〜記録」に対するもうひとつの印象操作について検証していきたい。




在日・強制連行の神話 (文春新書)

在日・強制連行の神話 (文春新書)




鄭大均氏は、「〜神話」に関する「これまで指摘されることのなかったいくつかの問題点」のひとつとしてその「政治的性格」を挙げる。鄭氏は朴氏が「〜記録」執筆時、「北朝鮮労働党に遠隔操作される組織」である朝鮮総連のメンバーであったこと(後述するが、朴氏は70年代に総連を脱退している)、「〜記録」には北朝鮮を称賛するような文章があることを指摘する。そして「氏をよく知る人によると、朴慶植は組織に従順なタイプの人間ではなかったという」「氏がいわゆる模範分子でなかったというのはそうなのであろう」*1としながらも、「朴慶植平壌に遠隔操作されて生きるのをよしとした」*2と書く。「〜神話」が出版されたのは2004年6月、北朝鮮拉致問題が日本中を賑やかし、北朝鮮や総連に対するイメージが極めて悪化していた時期だ。そういう中で北朝鮮(総連)とのつながりを臭わせれば、「うさん臭い」印象を与えるのは非常に容易になる。



こうした鄭大均氏の論考に対する問題については、外村大氏がすでに論文「朝鮮人強制連行―研究の意義と記憶の意味―」で指摘しているのでそちらを参照していただきたい。ここでは、外村氏の指摘を補足する形で(専門家である外村氏の論を一素人が補足するというのもおこがましい話だが)朴慶植氏の北朝鮮朝鮮総連に対する態度がどのようなものだったか、また朴慶植氏がどのような人物であったかを見ていきたい。





朴慶植氏の著作に「在日朝鮮人・強制連行・民族問題 古稀を記念して」(以下「古稀を記念して」と略)という本がある。題名が示すように朴氏が七十歳になった記念に刊行されたもので、未発表の論文やエッセイ、講演などが収められたものだ。



在日朝鮮人・強制連行・民族問題―古稀を記念して

在日朝鮮人・強制連行・民族問題―古稀を記念して



この中に「八・一五解放後の私の歩み」と題された文章がある。これは1984年に「日韓連帯をすすめる会」主催の講演したものだが、この中に朴慶植氏が「〜記録」執筆時を回想している部分があるので、少し長くなるが紹介したい(太字は引用者)。



一九六○年の『世界』五月号に「戦時下における中国人強制連行の記録」という調査報告がのったことに私は刺激をうけました。早速、それを報告した中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会が主催する研究会に参加し、朝鮮人の強制連行については朝鮮人自身がやらなくてはと考えました。私は六○年から六一年にかけてそれについて若干調べたものを六二年に朝鮮大学校の地理歴史学科から『太平洋戦争中における朝鮮人労働者の強制連行について』というパンフレットを出しました。(中略)その後六三―六四年にかけ、大学で出した前記のパンフレットの内容をもっと深めなくてはと思って、あちこちの炭鉱地帯へ調査に行き、在日本朝鮮青年同盟(朝青)の機関紙であった『新しい世代』に調査紀行を九回ほど連載しました。それと一九六五年二月号の『歴史学研究』に載せた「太平洋戦争時における朝鮮人強制連行」という論文その他を合わせて、六五年の「日韓条約」調印の少し前の五月、それに反対する立場から『朝鮮人強制連行の記録』という単行本を未来社から出しました。ところが、その当時はそういうことに対する組織自体の理解がありませんでした。私は総連の中央に二○冊ほど持っていき贈呈しましたが、後で「お前はなぜ勝手に本を出したか」と、総連中央の宣伝部から抗議を受けました。大学の副学長の所へも中央から電話が入ったため、副学長が私に「一体どうしたんだ」と言うのです。私は在日朝鮮科学者協会と総連中央の総務部に書類を二通つくって許可願いを出してあるのだから認められていたと思っていたと答え、また私のところへ総連中央から直接電話があった時にもそう言ってやりました。私のやっていることが個人主義的で、分派的な動きだとか、なんとか欠陥をつかまえてやろうということであったのかもしれません。*3

以上のように、朴慶植氏が「〜記録」を執筆したのは北朝鮮や総連に「遠隔操作」されたわけではなく、「中国人強制連行」の調査報告に触発された自発的なものであったこと、逆に総連からはその意義が理解されるどころか抗議さえ受けていたことがわかる*4。なお朴慶植氏はその後も総連から様々な圧力を受け、70年には朝鮮大学校の教師も辞めている。





また、これは「〜記録」とは関係ないのだが、同じ「八・一五解放後の私の歩み」の中から、彼が総連を離れることになったいきさつについて語られている部分がある。当時の彼と総連の関係がよく分かると思うのでやや長くなるが紹介したい。


ところで七一年八月、南北赤十字会談が開かれるようになり、八・一五解放あるいは朝鮮戦争の際、わかれ別れになった肉親、親戚、友人たちが再会できる希望が生まれ、私もこれで弟、姉妹と会える可能性を胸に秘めて次のような短文を『朝日新聞』に投書しました。

うれしい南北会談 みんなの力で促進望む

調布市 朴慶植(元大学教授四八歳)


血をわけた親兄弟が、人為的な国土分断のために間近に住んでいながら会うことはおろか、手紙一本もやりとりできず、生死の消息さえつかめずに二十六年間も閉じこめられていたこの朝鮮民族の悲劇は世界に例をみない。それが最近やっと、離散家族さがしのための南北赤十字会談によって解決へのきざしが見えてきたことは、なんとうれしいことだろうか。これを機会に南北統一の話合いからその実現へと進めていかねばと切に思う。私も二十六年前、親兄弟と別れたきりだ。その間、両親はなくなって再び会うすべもないのだが、せめて墓参りはしたい。また兄弟にも会って肉親の情を分ち合いたい。故郷の山河にも触れてみたい。私は国籍が朝鮮であるがために、故郷のある「韓国」に行って来られないし、日本から一歩も出ては帰って来られない。許可をもらって自由に南北朝鮮に行って来たいのは在日朝鮮人全部の願いなのである。
私は南北赤十字会談を成功させ、さらに南北統一の会談が開かれるよう個人的な立場において「南北会談支持・促進会議」(仮称)を提案したい。所属団体、思想・宗教その他の違いは、民族統一の悲願を達成するのに障害とはならないはずである。一人でも多くの人々の奮起を願ってやまない。また、日本の良識ある人々の協力を望んでやまない。
(『朝日新聞』一九七一・九・二九「声」の欄)


この投書が載った翌九月三○日朝九時半ごろ私が自転車で家から京王線国領駅へ向かう途中、朝鮮大学校の車で全浩天以下四人の教員、助手が現れて、私を捕え、「総連の方針とはちがうあの投書は何だ、今後も続けると殺すぞ」と脅迫、暴行を加えるのです。何とか逃れた私は怒りがこみあげ、早速大学側に抗議したところ、朴文国(教務部長)が電話に出て「殺されていいようなことをしたではないか」と平気でいい放つのです。これに我慢ならなかった私は一○月四日、李珍珪(副学長)に大学教師らによる暴行を電話で問いただしたところ、「君は総連盟員、共和国公民か、それならあんな投書はできない、はなれてやれ」といい、暴行については黙認であった。私は朝鮮中・高級学校に一一年間、朝鮮大学校に一○年間、自分なりに真面目に仕事をしてきたつもりであったが、このような大学側の態度には怒りと失望しかありませんでした。こうして私は総連から離れていったのです。*5

もうひとつ、「古稀を記念して」より「文化活動の連合戦線を……」と題された文章の一部を紹介したい。これは88年に発表された文章で、同年のソウルオリンピック北朝鮮の選手が参加したこと、また韓国での民主化闘争に触れ、以下のように書く。


在日の民族団体である在日本朝鮮人総連合会(総連)、在日本大韓民国居留民団(民団)ではこの韓国民衆の民主化闘争をどのように受けとめているのであろうか。最近、民族団体に対する在日同胞の不信はとみに増し、組織活動家の自己矛盾と苦悩はますます大きくなっているのに、組織改革への民主化運動の動きはみえてこない。民族団体における特権的幹部は南北の両政権を背景に依然として教条主義官僚主義的な作風で、両政権の方針を上意下達式に同胞におしつけている。同胞大衆の声など率直に聞こうとはしない。


(中略)


最近総連中央では官僚的特権の外に、金権主義がまかり通っている。民団は以前からのものであるが……。総連は在日同胞大衆を基盤とした本来の民族団体としてのあり方を変質し、もっぱら多額のカンパを提供する商工人を中心とした組織になっている。これでは同胞大衆の既成団体への不信感、組織ばなれがよりいっそう進行していくのも当然のことであろう。中堅幹部はこのような不正常な状況に苦悩しているが、この現状を変えようとしない限り解決の道はない。最近総連の組織体系の世代交替など言われているが、旧体制は依然として続けられており、真の民族団体に蘇生させようとするならば現体制の民主化が急務の課題であると思う。*6

このように、朴氏は総連だけでなく民団をも厳しく批判し、改革を促していた。88年といえば当時は総連も(全盛期ほどではないにせよ)現在に比べれば強い影響力を持っていた時期だ。その頃に在日朝鮮人という立場で総連を批判するというのは簡単なことではなかったはずだ。よくネット掲示板などで、総連や民団の言動や体質を非難する人々(必ずしも「嫌韓」ではない、比較的在日に対して「好意的」な人も含む)が一般の在日コリアンに対して「なぜ自分たちの団体を改善・改革しようとしないのか」などと書いているのを見ることがある。在日をめぐる状況というのはそんな単純なものではないし、また日本の行政組織と違い、民主的手続きに則って運営されているわけではない団体を改革するというのがどれだけ困難なことか思いを馳せることができない人々の想像力の貧しさにはあきれるが、朴氏はその困難に立ち向かった一人であったのである。



まとめ

なぜ「〜神話」の検証という本題から外れて、こうした朴慶植氏の発言を紹介したかというと、現在、朴慶植氏に対する「北朝鮮朝鮮総連)に操られ、強制連行というウソを広めた人物」というような不当なイメージが広まっており、そのことには鄭大均氏の「〜神話」の影響も大きいと思われるからである。確かに「〜記録」執筆時の朴氏は北朝鮮の思想や社会主義の影響から自由ではなかった。この点については朴氏自身も「古稀を記念して」で、

私は二一年間在日民族団体の在日本朝鮮人連盟(朝連)、在日朝鮮統一民主戦線(民戦)、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)所属の民族学校の教師であったがため、多少の批判的見解を持ってはいても、民族団体の政治的運動方針に従わざるを得ず、またその思想的立場からの物の考え方に引きずられていった。北朝鮮の政治思想的理念、信条、政治的・歴史的著作に追随していったことが多かった。*7

と回想している。また「〜記録」には金英達氏が指摘した誤りや、現在の眼から見て批判・検証すべき点もある(この点については外村大氏も上記論文で指摘している)。しかし「〜記録」は北朝鮮や総連の意図とは別に、朴氏の主体的な姿勢によって執筆されたのである。また、前に述べたように「〜記録」が研究者によって批判・検証されることで戦時動員研究の質も高められていった。その意味で「〜記録」は「強制連行」の「古典」ではあったが、(鄭大均氏がほのめかすように)無批判的に崇め奉られていた「バイブル」ではないのである。

*1:「〜神話」p126、127

*2:「〜神話」p130

*3:古稀を記念して」p616〜617

*4:なお、疑い深い人の中にはこうした朴氏の発言を、自身と総連のつながりを否定するための、一種の偽装的ポーズではないか、と疑う人もいるかもしれない。しかしこの講演が行われた84年も「古稀を記念して」が出版された92年も、まだ拉致問題は表面化しておらず、北朝鮮や総連のイメージもそれほど悪くはなかった。したがってそのような「アリバイ作り」をする必要も必然もなかったのである。

*5:古稀を記念して」p617〜619

*6:古稀を記念して」p86〜87

*7:古稀を記念して」p2